邪馬台国・畿内説「琵琶湖周辺」

邪馬台国
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琵琶湖周辺は「日本の要衝」

地政学的に考えると、「琵琶湖周辺」は要衝である。
これは竹村公太郎『日本史の謎は「地形」で解ける』でも解説されている。

琵琶湖(大津市)の西、つまり比叡山の南側には、その狭いエリアに主要道路・高速道路・鉄道が束になって通っている。
すなわち、琵琶湖湖畔に入るためには、この一点に絞られるわけだ。
それは東側も同様で、古来、関ヶ原(不破関)が重要拠点として機能していた。

つまり、琵琶湖地域に入るためには隘路だけであり、こうした軍事的な地理条件は、古代における大都市を作る条件として、極めて有利に働いたと考えられる。

さらに、北は日本海・敦賀に抜けており、ここから大陸との交易があったとされている。
琵琶湖そのものも、縄文時代から丸木舟による流通網が盛んであったことが分かっており、交易による経済活動が形成されていたことが伺える。

琵琶湖周辺は、古代において日本の中心地となるための条件が揃っているのである。

その地理的な好条件は中世(戦国時代)まで続き、この地は有力大名が統治する場所であった。

琵琶湖周辺までの行程

邪馬台国を琵琶湖周辺と考えた場合、その行程は以下のようになる。

不弥国から畿内に入るまでの行程は、その他の畿内説と同じである。

そこから先、神戸・大阪周辺から陸行を始めて、1ヶ月ほどかけて琵琶湖に入るというものだ。
北の敦賀から入った場合、陸行1ヶ月をかけるのは違和感があるため、この中国・使節団は瀬戸内海ルートで邪馬台国に向かったものと考えられる。

邪馬台国周辺の様子

琵琶湖周辺を邪馬台国と比定した場合、周辺との関係は以下のようになる。

女王国

邪馬台国・畿内説を採用する場合、
「女王国の東の海を1000里渡った先に別の倭人の国がある」
という記述を解釈するためには、「女王国」の捉え方が課題になる。

琵琶湖周辺地域は内陸であるため、「東の海を渡る」ことはできない。
これを解釈するためには、伊勢湾まで「女王国」の範囲を広げなければいけない。

つまり、

邪馬台国=女王国

ではなく、

女王の権威が及ぶ範囲=女王国

と解釈する方が妥当である。
そうであれば、「女王国」が指す範囲とは、航行してきた伊勢湾より西の西日本全域が該当する。
三重県伊勢・鳥羽周辺から、渥美半島へと抜ける渡海ルートが古代から存在しているため、それを指しているのかもしれない。

狗奴国

畿内説における狗奴国の候補としては、和歌山県、四国、九州南部が有力視されている。

また、『後漢書』における「倭人伝」では、狗奴国の記述は、

女王国から東に海を1000里渡った先に、狗奴国がある

となっていることから、魏志倭人伝が言う「別の倭種」が住むとされる東に1000里海を渡ったところ、つまり東海・関東地域のことを指すのかもしれない。

一大率は「敦賀」の港町

魏志倭人伝における中国・使節団は、瀬戸内海ルートにより女王国の畿内主要都市を巡って邪馬台国に入国した可能性が高いことを前述した。

しかし、古代日本の畿内における大陸との交易は「瀬戸内海ルート」だけでなく、「日本海ルート」も活発であったことが分かっている。

このことから、魏志倭人伝における記述である、

女王国の北には、特別に一大率の官を置き諸国を監察させており、諸国はこれを畏(おそ)れている。常に伊都国で治めている。あたかも中国でいうところの刺史(長官)のようである。
倭王が魏の都や帯方郡、韓の国に使者を派遣したり、帯方郡の使者が倭国に遣わされた時は、いつも港に出向いて荷物の数目を調べ、送られる文書や賜り物が女王のもとに届いたとき、間違いがないように点検する。

日本語訳はウィキペディアによる

という場合の、「女王国の北にあった一大率」とは、敦賀の港町に設置されていた可能性が高い。

女王以北の国

一大率と同様に、

女王国の以北は、其の戸数・道里を略載することが可能だが、其の他の傍国は遠く絶(へだ)たっていて、詳(つまびらか)に得ることができない。斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国。此れが女王の境界が尽きる所である。

日本語訳はウィキペディアによる

が示しているのは、瀬戸内海ルートから回ってきた使節団が、日本海側のことに言及している記述なのかもしれない。
その場合、日本海側の主要国でもあった出雲王国(島根)や諏訪地域(長野)もそれに含まれている可能性がある。

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