日本書紀・日本語訳「第二巻:神代・下」

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神代・下

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葦原中国の平定

天照大神あまてらすおおみかみの子である、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみことは、高皇産霊尊たかみむすひのみことの娘の栲幡千千姫たくはたちぢひめを娶とられて、天津彦彦火瓊瓊杵尊あまつひこひこほのににぎを生んだ。

皇祖である高皇産霊尊たかみむすひのみことは、特に可愛がり大事に育てられた。
そして、孫である瓊瓊杵尊ににぎのみことを立てて、葦原中国あしはらのなかつくにの君主としたいと思われた。

しかしその国に、蛍火のように輝く神や、蠅のように騒がしい良くない神がいる。
また、草木も皆よく物をいう。

そこで高皇産霊尊たかみむすひのみことは、多くの神々を集めて尋ねられた。
「私は葦原中国の良くない者を平定しようと思うが、それには誰を遣わしたらよいだろう。諸々の神たちよ、遠慮せず何でも言ってくれ」

皆が言うには、
天穂日命あまのほひのみことは大変優れた神です。試してみてはどうでしょう?」
ということであった。
皆の言葉に従って、天穂日命あまのほひのみことを行かせてみた。
しかしこの神は、大己貴神おおなむちのみことにおもねって、三年たっても復命しなかった。

このため、その子である大背飯三熊之大人おおそびのみくまのうし、別名、武三熊之大人たけみくまのうしを遣わした。
しかし、これもまたその父におもねり、なにも報告してこなかった。

そこで高皇産霊尊たかみむすひのみことは、さらに諸神を集めて、次に遣わすべき者を尋ねられた。
すると皆の者は、
天国玉神火あまつくにたまのかみの子の、天稚彦あめわかひこは立派な若者です。試してみてはどうでしょう」
と言った。

そこで高皇産霊尊たかみむすひのみことは、天稚彦あめわかひこ天鹿児弓あまのかごゆみ天羽羽矢あまのははやを授けられて、遣わされた。
しかし、この神もまた忠実でなかった。

到着すると、大己貴神おおなむちのみことの娘の、下照姫したてるひめを妻として地上に留まり、
「私も葦原中国あしはらのなかつくにを治めようと思う」
と言ったまま、ついに復命しなかった。

このとき、高皇産霊尊たかみむすひのみことは、その使者たちが長く知らせてこないのを怪しんで、無名雉ななしきぎしを遣わして様子を伺った。
雉は飛び降りて、天稚彦あめわかひこの門の前に立っている神聖なかつらの木のこずえにとまった。
そのとき、この雉を天探女あまのさぐめが見つけて、天稚彦あめわかひこに告げた。
「珍しい鳥が来て、桂の梢にとまっています」

天稚彦あまわかひこは、高皇産霊尊たかみむすひのみことから頂いた天鹿児弓あまのかごゆみ天羽羽矢あまのははやをとり、雉を射殺いころした。

その矢は雉の胸を通り抜け、高皇産霊尊たかみむすひのみことのお出でになる御前に届いた。
高皇産霊尊たかみむすひのみことはその矢をご覧になられて、
「この矢は昔、私が天稚彦あめわかひこに与えた矢である。血が矢についている。きっと国つ神くにつかみと闘ったのだろう」
と言って、矢を取り返して投げ降ろされた。

その矢は落ち下って、天稚彦あめわかひこの胸に当った。
天稚彦あまわかひこ新嘗にいなめの行事の後で、仰臥ぎょうがしていたところだったため、矢に当たるや、立ちどころに死んだ。
これが、世の人々が
「射かけた矢が相手に拾われ、それを射返いかえされるとこちらがやられる」
と言って忌むことの由来である。

天稚彦あまわかひこの妻である下照姫したてるひめは、泣き悲しんでその声が天まで届いた。
このとき、天国玉神あまつくにたまのかみは、その泣き声を聞いて、天稚彦あめわかひこが死んだことを知り、疾風はやてを送ってしかばねを天に上げ送らせた。
そこで喪屋もやを造り、もがりの式をした。

川雁かわかり持傾頭者きさりもち死者に供える食事を持って随行する者とされる)と持帚者ははきもち葬送の後に付いて掃き清める者)として、すずめ舂女つきめ供える米をつくる役)とした。
そして八日八夜泣き悲しみしのんだ。

以前から、天稚彦あまわかひこ葦原中国あしはらのなかつくににいたとき、味耜高彦根神あじすきたかひこねのかみと仲がよかった。
それで味耜高彦根神あじすきたかひこねのかみは、天に上って喪を弔った。
この神の顔と姿が、天稚彦あまわかひこの生前の有様によく似ていたので、天稚彦あまわかひこの親族妻子は皆、
「我が君は、まだ死んでいなかった」
と衣の端を捉えて喜び泣いた。

これに味耜高彦根神あじすきたかひこねのかみは憤然として怒り、
「朋友の道としてお弔いすべきだから、穢れるのも厭わず遠くからお悔みにやってきた。それなのに、私を死人と間違えるとは」
と言って腰に差していた大きな刀を抜いて、喪屋を切り倒した。

これが下界に落ちて山となった。
現在、美濃国の藍見川の川上にある喪山がこれである。
世の中の人が、生きている人を、死んだ人と間違えるのを忌むのはこれが由来である。

その後、高皇産霊尊たかみむすひのみことは、また諸神を集めて葦原中国あしはらのなかつくにに遣わすべき者を選んだ。
皆が、
磐裂根裂神いわさくねさくのかみの子で、磐筒男いわつつのお磐筒女いわつつのめが生んだ、経津主神ふつぬしのかみが良いでしょう」
と言った。

そのとき、天石屋あまのいわやに住む稜威雄走神いつのおはしりのかみの子である、甕速日神みかはやひのかみ、その子である熯速日神ひのはやひのかみ、その子である武甕槌神たけみかつちのかみが進み出て、
「どうして経津主神ふつぬしのかみだけが良くて、自分はダメなのだ」
と言った。
その語気が大変激しかったので、経津主神ふつぬしのかみに添えて、共に葦原中国あしはらのなかつくにに向かわされた。

二柱の神は、出雲いずもの国の五十田狭いたき小汀おはまに降りられて、十握とつかの剣を抜いて、逆さに大地に突き立てた。
そして、その先に膝を立てて座り、大己貴神おおなむちのみことに尋ねた。
高皇産霊尊たかみむすひのみことが皇孫を降らせ、この地に君臨しようと思っておられる。そこで、我ら二人を平定に遣わされた。 お前の心はどうか、お譲りするか、否か」

そのとき大己貴神は、
「私の子どもに相談して、御返事いたしましょう」
と答えた。

このとき、その子である事代主神ことしろぬしのかみは、出雲の美保の崎みほのさきにいて、釣りを楽しんでいた。
あるいは鳥を射ちに行っていたともいう。

そこで、熊野の諸手船もろたぶねに、使者として稲背脛いなせはぎ諾否を問う係)を乗せて向かわせた。
そして、高皇産霊尊たかみむすひのみことの言葉を事代主神ことしろぬしのかみに伝え、その返事を尋ねた。

そのとき、事代主神ことしろぬしのかみは使者に対し、
「今回の天つ神あまつかみの言葉には、父上は抵抗しない方が良いでしよう。私も仰せに逆う ことは致しません」
と言った。

そして、波の上に幾重もの青柴垣あおふがきをつくり、船の側板を踏んで、 海中に退去してしまわれた。
使者は急ぎ帰って、これを報告した。

大己貴神おおあなむちのみことは、その御子みこの言葉を二柱の神に告げ、
「私が頼みとした子はもういません。だから私も身を引きましよう。もし私が抵抗したら、国内の諸神もきっと同じように戦うでしよう。今、私が身を引けば、誰もあえて戦わないでしょう」
と言われた。

そこで国を平定したときに用いられた広矛を、二柱の神に奉り、
「私はこの矛をもって、事を成し遂げました。天孫がもしこの矛を用いて国に臨まれたら、きっと平安になるでしょう。今から私は幽界ゆうかい死後の世界のこと)に参ります」
と言い、言い終ると共に隐れてしまわれた。

そこで二神は、諸々の従わない神たちを成敗、あるいは、邪神や草木、石に至るまで皆平げた。
従わないのは、星の神である香香背男かかせおだけとなった。
そこで建葉槌命たけはつちのみことを遣わして屈服させた。
そして、二神は天に上って復命された。

音川安親「万物雛形画譜」wikipediaより

時に、高皇産霊尊たかみむすひのみことは、真床追衾まとこおうふすま玉座を覆う襖)で、瓊璦杵尊ににぎのみことを包んで降ろした。
皇孫は天の磐座あまのいわくらを離れ、天の八重雲を押しひらき、勢いよく道を踏み分けて進み、日向の襲ひむかのそ高千穂の峯たかちほのみねにお降りになった。

皇孫はお進みになり、槵日の二上くしひのふたかみ天の梯子あまのはしごから、 浮島の平な所にお立ちになって、瘦せた不毛の地を丘続きに歩かれ、良い国を求めて、吾田国あたくに南九州・阿多地域)の長屋の笠狭崎かささのみさきにお着きになった。

そこに人がいて、自らを事勝国勝長狭ことかつくにかつながきと名乗った。
皇孫が、
「国があるのかどうか?」
と問うと、彼はそれに答えて、
「国があります。お気に召しましたら、どうぞごゆるりと」
と言う。
それで皇孫はそこに止まられた。

その国に美人がいた。
名を鹿葦津姫かしつひめといい、またの名を、神吾田津姫かむあたつひめ、また木花開耶姫このはなさくやひめともいう。
皇孫がこの美人に、
「あなたは誰の娘ですか?」
と問われた。
すると、
「私は天つ神あまつかみ大山祇神おおやまつみのかみを娶とって生まされた子です」
と答えた。

皇孫はお召しになった。
すると一夜だけで妊娠した。
皇孫は偽りだろうと思われて、
「たとえ天つ神あまつかみであっても、どうして一夜の間に孕ませることができようか。 お前が孕んだのは我が子ではあるまい」
と言われた。

すると、鹿葦津姫かしつひめは怒り恨んで、無戸室(出入り口のない小屋)を作り、その中に籠もって、誓約せいやくの言葉を述べ、
「私が孕んだ子が、もし天孫の子でないならば、きっと焼け滅びるでしょう。もし本当に天孫の子ならば、火も損なうことは出来ぬでしょう」
と言い、そして火を付けて室を焼いた。

燃え上がった煙から生まれ出た子を、火闌降命ほのすそりのみことと名づけた。
これが隼人はやとらの始祖である。
次に熱を避けてお出でになるときに生まれ出た子を、彦火火出見尊ひこほほでみのみことと名づけた。
次に生まれ出た子を、火明命ほのあかりのみことと名づけた。
これが尾張連おわりむらじの始祖である。
全部で三人の御子みこである。

しばらくたって、瓊瓊杵尊ににぎのみことはお隠れになった。
それで筑紫ちくし日向ひむか可愛の山えのやまみささぎに葬った。


別の言い伝え(第一)によると、天照大神あまてらすおおみかみ天稚彦あめわかひこに、
豊葦原中国とよあしはらなかつくには、我が子が王たるべき国である。けれども強暴な悪い神たちがいる。だからまず、お前が行って平定せよ」
と言われた。

そこで天鹿児弓あまのかごゆみ天真鹿児矢あまのかごやを授けて遣わされた。
天稚彦あめわかひこは天降って、国つ神くにつかみの娘をたくさん娶とり、八年になるまで復命しなかった。
だから天照大神あまてらすおおみかみ思兼神おもいかねのかみを召して、その帰らない事情を問うた。
思兼神おもいかねのかみは思い考え、
雉子きぎしを遣わして問わせるのが良いでしよう」
と言う。

そこで、その神の考えに従って、雉子きぎしを遣わして見に行かせた。
雉子きぎしが飛び下って、天稚彦あめわかひこの門前のかつらの木の梢にとまり鳴いて、
天稚彦あめわかひこ、なぜ八年の間、復命しないのか」
と問うた。
このとき、国つ神くにつかみ天探女あまのさぐめという人がおり、その雉子きぎしを見て、
「鳴き声の悪い鳥が、この木の梢にいます。射殺いころしてしまいましょう」
と言った。

天稚彦あめわかひこは天神から授かった、天鹿児弓あまのかごゆみ天真鹿児矢あまのかごやを取ってこれを射た。
矢は雉の胸を通して、天上の天神のところへ届いた。
天神はその矢をご覧になって、
「これは昔、私が天稚彦あめわかひこに与えた矢である。今どうしてやってきたのだろう」
と言われ、矢をとって呪いの言葉をかけた。
「もし悪い心をもって射たのなら、天稚彦あまわかひこはきっと災難にあうだろう。もし清い心をもって射たのなら無事だろう」
そして矢を返し投げられた。

その矢は落ち下って、 天稚彦あまわかひこの寝ている胸に当った。
これにより、たちどころに死んだ。
これが世の人々が言う、「返矢かえしやは恐ろしい」の由来である。

その後、天稚彦あまわかひこの妻子が天から降りてきて、ひつぎを持って上っていき、天上に喪屋もやを作ってもがりの式をして泣いた。
以前から、天稚彦あまわかひこ味耜高彦根神あじすきたかひこねのかみは仲が良かった。
それで味耜高彦根神あじすきたかひこねのかみは、天に上って喪を弔って大声で泣いた。
時に、この神の容貌は、天稚彦あまわかひこと大変よく似ていた。
それで天稚彦あまわかひこの妻子たちは見て喜んで、
「我が君は死なないでまだおられた」
と言った。
そして、衣帯によじかかり、放すことも難しかった。

味耜高彦根神あじすきたかひこねのかみは怒って、
「友達は死んだのだ。だから私は弔いに来たのだ。それなのに私をどうして死人と間違えるのだ」
といって十握とつかの剣を抜いて、喪屋もやを切り倒した。
その小屋が下界に落ちて山となった。
これが美濃国みののくに喪山もやまである。

世の人々が、死んだ人と自分と間違えられるのを忌むのは、これがその由来である。
時に、この味耜高彦根神あじすきたかひこねのかみは、装い麗しく輝き、二つの丘、二つの谷の間に照り渡るほどであった。
それで喪に集まった人が歌を詠んだ。
あるいは、味耜高彦根神あじすきたかひこねのかみの妹である下照姫しもてるひめが、集まった人たちに向かって、丘や谷に照り渡るものは、味耜高彦根神あじすきたかひこねのかみであることを知らせようとして詠んだともいう。

アメナルヤ、オトタナバタノ、ウナガセル、タマノミスマルノ、アナタマハヤ、
ミタニフタワタラス、アデスキタカヒコネ。

天にいる弟織女おとたなばたが、首にかけている玉の御統みすまる。その御統みすまるに通してある穴玉は大変美しいが、それは谷二つに渡って輝いている味耜高彦根神あじすきたかひこねのかみと同じである。

さらに歌う。

アマサカル、ヒナツメノ、イワタラスセト、イシ力ハカタフチ、カタフチニ、
アミハリワタシ、メロヨシニヨシヨリコネ、イシ力ハカタフチ。

夷つ女ひなつめ田舍の女)が、瀬戸を渡って魚をとる。石川の片淵かたふちよ。その淵に網を張り渡し、網の目を引き寄せるように、寄っておいで石川の片淵よ。

この二つの歌は、今では夷曲ひなぶりと名づけている。

すでに天照大神あまてらすおおみかみは、思兼神おもいかねのかみの妹である万幡豊秋津姫命よろずはたとよあきつひめのみこと正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみことに娶あわせ、妃として葦原中国あしはらのなかつくにに降らされた。
そこで勝速日天忍穂耳尊かちはやひあまのおしほみみのみことは、天浮橋あまのうきはしに立たれて、下を見下し、
「あの国はまだ平定されていない。使えない、気の進まぬ安定していない国のようだ」
と言い、再び帰り上って、天降られないわけを詳しく述べられた。

このため天照大神がまた武甕槌神たけみかつちのかみ経津主神ふつぬしのかみを遣わして、先行して討ち払わさせた。

そこで二柱の神が出雲にお降りになり、大己貴神おおあなむちのみことに問われた。
「お前はこの国を天つ神にたてまつる気はあるのか、ないのか」

大己貴神おおあなむちのみことが答えた。
「我が子の事代主ことしろぬしが、鳥を射ちに三津の崎みつのさきにいっています。今すぐ尋ねてご返事いたしましょう」
そこで使いを送って尋ねた。
事代主ことしろぬしの答えは、
「天つ神の望まれるのを、どうして奉らないことがありましょうか」

それで大己貴神おおあなむちのみことは、その子の言葉をもって、二柱の神にお知らせした。
二柱の神は天に上って復命し、
葦原中国あしはらのなかつくには皆すでに平定しました」
と言われた。

時に、天照大神あまてらすおおみかみちょくして、
「もしそうなら、すぐ我が子を降らせよう」
と言われた。

そのまさに降らせようとするときに、皇孫がお生まれになった。
名を天津彦彦火瓊瓊杵尊あまつひこひこほににぎのみことという。
特に申し上げる者があり、
「この皇孫を代りに降らせられませ」
と言う。
そこで天照大神は、瓊瓚杵尊ににぎのみことに対し、八坂瓊曲玉やさかにのまがたま、及び八咫鏡やたのかがみ草薙剣くさなぎのつるぎの三種の神器を賜わった。

また中臣なかとみ氏の遠祖、 天児屋命あめのこやねのみこと忌部いんべの遠祖の太玉命ふとたまのみこと猿女さるめの遠祖の天鈿女命あめのうずめのみこと鏡作かがみつくりの遠祖の石凝姥命いしこりどめのみこと玉作たまつくりの遠祖の玉屋命たまのやのみこと、全部で五部の神たちを配して、付き従わせた。

そして、皇孫に勅して言われたのが、
「葦原の千五百秋ちいほあき瑞穂みずほの国は、我が子孫が王たるべき国である。皇孫のあなたが行って治めなさい。さあ、行きなさい。宝祚あまつひつぎの栄えることは、天地と共に窮りないであろう」
というものであった。

すぐに降ろうとする頃に、先払いの神が帰ってきて、
「一人の神が天八街あまのやちまた分かれ道)におり、その鼻の長さ七つか、背の高さ七尺あまり、正に七ひろというべきでしょう。また口の端が明るく光っています。目は八咫鏡やたのかがみのようで、照り輝いていることは、赤酸漿あかほおずきに似ています」
と報告した。

そこでお供の神を遣わして問わせられた。
八十万やその神たちがおられ、皆眼光が鋭く、尋ねることもできなかった。
そこで天鈿女あめのうずめに特に勅して、
「お前は眼力が人に勝れた者である。行って尋ねなさい」
と言われた。

天細女あめのうずめはそこで、自分の胸を露わにむき出して、腰ひもを臍の下まで押しさげ、 あざ笑って向かい立った。
このとき、街の神が、
天細女あめのうずめよ、あなたがこんな風にされるのは何故ですか」
と尋ねた。
天鈿女あめのうずめは、
天照大神あまてらすおおみかみの御子がお出でになる道に、こうしているのは一体誰なのか、あえて問う」
と答え、尋ねた。
街の神は答えた。
天照大神あまてらすおおみかみの御子が、今降ってお出でになると聞いています。それでお迎えしてお待ちしているの です。私の名は猿田彦大神さるたひこのおおかみです」
そこで天鈿女あめのうずめがまた尋ねて、
「お前が私より先に立って行くか、私がお前より先に立って行こうか」
猿田彦大神さるたひこのおおかみは答えた。
「私が先に立って道を開いて行きましよう」
天鈿女あめのうずめがまた問う。
「お前はどこへ行こうとするのか。皇孫はどこへお出でになるのか」
猿田彦さるたひこが答えた。
「天つ神の御子は、筑紫の日向の高千穂の槵触峯くしふるたけにお出でになるでしょう。私は伊勢の狭長田さなだ五十鈴いすずの川上に行くでしょう」
そして、
「私の出所を露わにしたのはあなただから、あなたは私を送って行って下さい」
と言った。
天細女あめのうずめは天に帰ってこれを報告した。

皇孫はそこで天磐座あまのいわくらを離れ、天八重雲あまのやえくもを押しわけて降り、勢いよく道を踏みわけて進み天降られた。
そして、先の約束のように、皇孫を筑紫の日向の高千穂の槵触峯くしふるたけにお届けした。

猿田彦神さるたひこのかみは、伊勢の狭長田さなだ五十鈴いすずの川上に着いた。
天鈿女命あめのうずめのみこと猿田彦神さるたひこのかみの要望に従って、最後まで送って行った。

時に、皇孫は天鈿女命あめのうずめのみことちょくして、
「お前が露わにした神の名を、お前の姓氏にしよう」
と言われ、猿女君さるめのきみの名を賜わった。
だから猿女君さるめのきみらの男女は皆、君と呼んでいる。
これがそのことの由来である。


別の言い伝え(第二)によると、天つ神が経津主神ふつぬしのかみ武甕槌神たけみかつちのかみを遣わし、葦原中国あしはらのなかつくにを平定させられた。
そのとき、二柱の神は、
「天に悪い神がいます。名を天津甕星あまつみかほしといいます。またの名は天香香背男あまのかかせおです。どうか、まずこの神を除き、それから降って、葦原中国を平定させて頂きたい」
と言った。
このとき、甕星かほしを征する斎主いわいをする主をいわい大人うしといった。
この神は今、東国の檝取かとり香取)の地にお出でになる。

時に、二柱の神は、出雲いずも五十田狭いたさ小汀おばまに降って、大己貴神おおあなむちのみことに、
「お前はこの国を天つ神に奉るかどうか」
と問われた。
大己貴神おおあなむちのみことは、
「あなた方二神の言われることはどうも怪しい。私が元から居るところへやって来たのではないか。許すことは出来ぬ」
と答えた。

そこで経津主神ふつぬしのかみは帰り上って報告した。
高皇産霊尊たかみむすひのみことは二柱の神を再び遣わし、大己貴神おおあなむちのみことちょくして、
「今、お前の言うことを聞くと、深く理に叶っている。それで詳しく条件を揃えて申しましょう。あなたが行なわれる現世の政治のことは、皇孫が致しましょう。あなたは幽界ゆうかいの神事を受け持って下さい。また、あなたが住むべき宮居みやいは、今からお造り致しますが、千尋もあるたえの縄でゆわえて、しっかりと結び造りましょう。その宮を造る決まりは、柱は高く太く、板は広く厚く致しましょう。また供田を作りましょう。また、あなたが往き来して海に遊ばれる備えのために、高い橋や水上に浮いた橋、鳥のように速く馳ける船など造りましょう。さらに、天上の安河やすかわにかけ外しのできる橋を造りましょう。また、幾重にも革を縫い合わせた白楯しらたてを造りましょう。また、あなたの祭祀を掌るのは、天穂日命あめのほひのみことが致します」
と言った。

そこで大己貴神おおあなむちのみことは、
「天つ神のおっしゃることは、こんなに行き届いている。どうして仰せに従わないことがありましょうか。私が治めるこの世のことは、皇孫がまさに治められるべきです。私は退いて、幽界ゆうかいの神事を担当しましょう」
と答えた。

そこで岐神ふなとのかみ猿田彦神)を二神に勧めて、
「これが私に代ってお仕え申し上げるでしょう。私は今ここから退去します」
と言い、体に八坂瓊やさかにの大きな玉をつけて、永久にお隠れになった。

その後、経津主神ふつぬしのかみ岐神ふなとのかみを先導役として、方々を巡り歩き、平定した。
従わない者があると斬り殺した。
帰順する者には褒美を与えた。
この時に帰順した首長は、大物主神おおものぬしのかみ事代主神ことしろぬしのかみである。
そこで八十万神やそのかみ天高市あめのたけちに集めて、この神々を率いて天に上り、その誠の心を披歴された。

時に、高皇産霊尊たかみむすひのみこと大物主神おおものぬしのかみに勅されるのに、
「お前がもし国つ神を妻とするなら、 私はお前がまだ心を許していないと考える。そこで、これから我が娘の三穂津姫みほつひめを、お前に娶あわせて妻とさせたい。八十万やその神たちを引き連れて、永く皇孫のために守って欲しい」
と言い、還り降らせられた。

そして、紀国きのくにの忌部の遠祖である手置帆負神たおきほおいのかみを、笠作りの役目とされた。
彦狭知神ひこさちのかみを、盾作りの役目とされた。
天目一箇神あまめひとつかのかみを、鍛冶の役とされた。
天日鷲神あまのひわしのかみを、布を作る役目とされた。
櫛明玉神くしあかるたまのかみを、玉造りの役目とされた。
太玉命ふとたまのみことを、弱い肩に太いたすきをかけるように、天孫の代理として、大己貴神おおあなむちのみことを祀らせるのは、ここから始まったものである。

また天児屋命あめのこやねのみことは神事の元締の役である。
それで太占ふとまに(鹿の肩の骨を焼き、現れる裂目の形を見る占い)のうらないを役目とさせて仕えさせた。

高皇産霊尊たかみむすひのみことは勅して、
「私は天津神籬あまつひもろぎ神が降臨される特別な場所)と天津磐境あまついわさか高い岩の台)を造りあげて、皇孫のために謹しみ祭ろう。天児屋命と太玉命は、天津神籬をもって葦原中国に降り、皇孫のために謹しみ祭りなさい」
と言われた。
そして二神を遣わし、天忍穂耳尊あまのおしほみみのみことに付き従わせて降らせられた。

このとき、天照大神あまてらすおおみかみは手に宝鏡ほうきょうを持って、天忍穂耳尊あまのおしほみみのみことに授けて、
「我が子がこの宝鏡を見るのに、丁度私を見るようにすべきである。共に床を同じくし、部屋をひとつにして、慎み祭る鏡とせよ」
と祝われた。

また天児屋命あめのこやねのみこと太玉命ふとたまのみことに勅して、
「お前たち二神は、共に同じ建物の中に侍って、よくお守りの役をせよ」
と言われた。
またさらに勅して、
「我が高天原たかまがはらにある斎庭ゆにわいなほ神に捧げる神聖な稲穂)を、我が子に与えなさい」
と言われた。

高皇産霊尊たかみむすひのみことの娘の万幡姫よろずはたひめを、天忍穂耳尊あまのおしほみみのみことと娶あわせ、妃として降らせられた。
そこでその途中の大空におられたとき生まれた子を、天津彦火壤瓊杵尊あまつひこほのににぎのみことという。
よってこの皇孫を、親の代理として降らせようと思われた。
天児屋命あめのこやねのみこと太玉命ふとたまのみこと以下、諸々の神たちを、すべてお伴として授けた。
また、そのお召しになる物は、前例のごとく授けられ、そののちに天忍穂耳尊あまのおしほみみのみことは、また天にお帰りになった。

天津彦火瓊瓊杵尊あまつひこほのににぎのみことは、日向の槵日くしひ高千穂峯たかちほのみねに降られて、膂宍そしし胸副国むなそうくに痩せた土地の国)を丘続きに求め歩いて、浮渚在平地うきじまりたいらに立たれ、国主である事勝国勝長狭ことかつくにかつながさを召されて尋ねられた。
事勝国勝長狭ことかつくにかつながさは、
「ここに国があります。みことのりのままにどうぞ御自由に」
と答えた。

そこで皇孫は宮殿を建てて、ここにお住まいになった。
後に浜辺にお出でになって、一人の美人をご覧になった。
そして皇孫が尋ねた。
「お前は誰の娘か」
美人は答えた。
「私は大山祇神おおやまつみのかみの娘で、名は神吾田鹿葦津姫かむあたかしつひめ、またの名を木花開耶姫このはなさくやひめといいます」
続けて、
「また、私の姉に磐長姫いわながひめがいます」

皇孫は、
「私はお前を妻にしたいと思うがどうだろうか」
と尋ねた。
木花開耶姫このはなさくやひめは、
「私の父に、大山祇神おおやまつみのかみがいます。どうか父にお尋ね下さい」
と答えた。

皇孫はそれで大山祇神おおやまつみのかみに話して、
「私はお前の娘を見た。妻に欲しいと思うが」
と尋ねた。
そこで大山祇神おおやまつみのかみは、二人の娘に数多くの物を並べた机を持たせて奉らせた。
時に、皇孫は姉の方は醜いと思われ、召されないで返された。

妹は美人であるとして召されて交合された。
すると一夜で妊娠された。
一方、磐長姫いわながひめは大変恥じて呪って言われた。
「もし天孫が私を退けられないでお召しになったら、生まれる御子は命が永く、いつまでも死なないでしょう。ところがそうでなく、ただ妹一人を召されました。だからその生む子は、きっと木の花の如く、散り落ちてしまうでしょう」

一説では、磐長姫いわながひめは恥じ恨んで、唾を吐き呪って泣き、
「この世に生きている青人草あおひとぐさ(人民)は、木の花の如く移ろい、衰えてしまうでしょう」
と言ったとされる。
これが、世の人々の命が脆いことの原因であるという。
こののちに、神吾田鹿葦津姫かむあたかしつひめが、皇孫をご覧になって、
「私、天孫の御子を身ごもりました。こっそりと出産するわけに参りません」
と言った。
皇孫は、
「天つ神の子であるといっても、どうして一晩で妊ませられようか。 もしや、我が子ではないのであるまいか」
と言った。

木花開耶姫このはなさくやひめは大変恥じて、戸がない塗籠ぬりごめの部屋を作って、
「私の孕んだ子が、もし他の神の子ならば、きっと不幸になるでしよう。また、本当に天孫の子だったら、きっと無事で生まれるでしょう」
と誓い述べた。

それからその部屋の中に入って、火をつけて室を焼いた。
そして、炎が出始めたときに生まれた子を、火酢芹命ほのすせりのみこと
次に、火の盛んなときに生まれた子を、火明命ほのあかりのみことと名づけた。
次に生まれた子を、彦火火出見尊ひこほほでみのみことという。
またの名を火折尊ほおりのみことという。


別の言い伝え(第三)によると、はじめに炎が明るくなったときに生まれた子を、火明命ほのあかりのみこと
次に、炎の盛んになったときに生まれた子を火進命ほのすすみのみこと。または、火酢芹命ほのすせりのみこと
次に、炎がなくなるときに生まれた子を、火折彦火火出見尊ほおりひこほほでみのみことという。
この三人の御子は、火でも損うことができなかった。
母親もまた、少しも損うところがなかった。

そのとき、竹刀で御子のへそを切った。
その捨てた竹刀が、後に竹林となった。
そこでその所を名づけて竹屋たけやという。

時に、神吾田鹿葦津姫かむあたかしつひめは、ト定田うらへた占いによって定めた神餞田)を狭名田さなだと名づけた。
その田の稲をもって、天甜酒あめのたむさけを嚙んでつくり、お供えした。
また沼田の稲をもって、飯に炊いてお供えした。


別の言い伝え(第四)によると、高皇産霊尊たかみむすひのみことが、真床覆衾まとこおうふすまをもって、天津彦国光彦火瓊瓚杵尊あまつひこくにてるひこほのににぎのみことにお着せになって、天磐戸あまのいわとを引きあけ、天八重雲あめのやえぐもを押し分けてお降しになった。
そのとき、大伴連おおとものむらじの遠祖である天忍日命あまのおしひのみこと来目部くめべの遠祖である天槵津大来目あめくしつおおくめを率いて、背には天磐鞔あまのいわゆきを負い、ただむきには高鞆たかともをつけ、手には天梔弓あまのはじゆみ天羽羽矢あまのははやをとり、八目の鏑矢かぶらやをとりそえ、また、柄頭つつがしらつちのような形の剣を帯びて、天孫の前に立って降って行き、日向の襲ひむかのそ高千穂たかちほの、扼日くしび二上峯ふたかみのたけ天浮橋あまのうきはしに至り、「うきじまのたいら」にお立ちになって、膂宍そしし空国むなくにを、丘続きに求め歩いて、吾田あた長屋ながや笠狭かささに着かれた。

するとそこに一人の神があり、名を事勝国勝長狭ことかつくにかつながさといった。
天孫がその神に、
「ここに国があるだろうか」と問うと、
「あります」
と答えた。
そして、
みことのりのままにたてまつりましょう」
と言った。
それで天孫はそこにとどまられた。
その事勝国勝神ことかつくにかつながさは、伊奘諾尊いざなぎのみことの子で、またの名を塩土老翁しおつつのおじという。


別の言い伝え(第五)によると、天孫が大山祇神おおやまつみのかみの娘、吾田鹿葦津姫あたかしつひめを召され、一夜で孕まれた。
そして四人の子を生んだ。
そこで吾田鹿葦津姫あたかしつひめは、子を抱いてやってきて言われるのに、
天つ神あまつかみの子を、どうしてこっそり養うべきでしょうか。だから様子を申し上げて知って頂きます」
と言う。
このときに、天孫はその子等を見て嘲笑って言った。
「何とまあ、私の皇子たち、こんなに生まれたとは本当に嬉しい」

そこで吾田鹿葦津姫あたかしつひめは怒って、
「どうして私を嘲りなさるのか」
と言った。
天孫が言われる。
「心に疑わしく思う。だから嘲った。なぜなら、いくら天つ神の子でも、どうして一夜の中に、人に孕ませることができるのか。きっと我が子ではあるまい」

このため、吾田鹿葦津姫あたかしつひめはますます恨んで、 無戸室うつむろを作ってその中に籠もり、誓いの詞をたてて、
「私の孕んだのがもし天つ神の子でなかったら、必ず焼け失せよ。もし、天つ神の子ならば、損なわれることはないでしょう」
そして火をつけて室を焼いた。

その火がはじめ明るくなったとき、踏み出して出てきた子は、自ら名乗って、
「我は天つ神の子、名は火明命ほのあかりのみことである。我が父は何処におられるのか」
次に、火の盛んなときに踏み出してきた子は、また名乗りをして、
「我は天つ神の子、名は火進命ほのすすみのみこと。我が父と兄弟は何処におられるのか」
次に、炎の衰えるときに踏み出してきた子は、また名乗りをして、
「我は天つ神の子、名は火折尊ほおりのみこと。我が父と兄弟たちは何処におられるか」
次に、火熱が引けるときにふみ出してきた子は、また名乗りをして、
「我は天つ神の子、名は彦火火出見尊ひこほほでみのみこと。我が父と兄弟らは何処におられるのか」

その後、母の吾田鹿葦津姫あたかしつひめが、燃え杭の中から出てきて、天つ神あまつかみのところへ行き、
「私が生んだ御子と私の身は、自ら火難にあっても、少しも損われるところがありませんでした。天孫はご覧になりましたか」
と述べた。
天孫はこれに対し、
「私はもとより、これが我が子であると知っていた。ただ、一夜で孕んだということを疑う者があると思って、衆人にこれらが皆我が子であり、また、天つ神はよく一夜で孕ませられることを知らせたいと思ったのだ。お前は不思議な勝れた力がある。この子たちには、人に勝れた気のあることを明らかにしたいと思った。このため、先立って、嘲りの言葉を述べたのだ」
と言った。


別の言い伝え(第六)によると、天忍穂根尊あめのおしほねのみこと高皇産霊尊たかみむすひのみことの娘である栲幡千千姫万幡姫命たくはたちぢひめよろずはたひめのみこと、または高皇産霊尊たかみむすひのみことの娘である火之戸幡姫ほのとはたひめの子の千千姫命ちぢひめのみことを娶とられた。
そして、天火明命あまのほのあかりのみことを生んだ。
次に、天津彦根火瓊瓊杵根尊あまつひこねほのににぎねのみことを生んだ。
その天火明命あまのほのあかりのみことの子である天香山あまのかぐやまは、尾張連おわりのむらじらの遠祖である。

皇孫である火瓊瓊杵尊ほのににぎのみこと葦原中国あしはらのなかつくにに降しなさることになって、高皇産霊尊たかみむすひのみことは、八十神たちに勅して、
葦原中国あしはらのなかつくには、岩根いわね木の株きのかぶ、草の葉もよく物を言う。夜は穂火ほほ火の子)の如く騒がしく響き、昼はうるさいはえの如くに沸きあがる」
と言う、云々があった。

時に、高皇産霊尊たかみむすひのみことちょくして、
「昔、天稚彦あめわかひこを葦原中国に遣わしたが、今に至るまで永く帰ってこないのは、思うに国つ神くにつかみに抵抗する者があってと思われる」
と言われた。
そこで、無名雄雉ななしおのきぎしを遣わして、見に行かせた。
この雉は飛び下って、くりや豆の生えているのを見て、そこに留って帰らなかった。
これが世に言う、「きぎしの片道使い」の由来である。

そこでまた無名雌雉ななしおのきぎしを遣わした。
この鳥が飛び下って、天稚彦あめわかひこのために射られて、その矢に当たって上って報告した、という云々があった。

このときに、高皇産霊尊たかみむすひのみこと真床覆衾まどこおうふすまをもって、皇孫の天津彦根火瓊瓊杵根尊あまつひこねほのににぎねのみことに着せ、天八重雲あまのやえくもを押し分けて降らせた。
だから、この神を、天国饒石彦火瓊瓊杵尊あめくににぎしひこほのににぎのみことという。
その天降りされたところを呼んで、日向の襲ひむかのそ高千穂たかちほ添の山峯そほりのたまのたけという。

そのお出でになる時になって、云々があり、吾田あた笠狭かささの御崎にお出でになった。
そしてついに長島ながしま竹島たけしまに登られた。
その地を巡りご覧になると、そこに人がおり、名を事勝国勝長狭ことかつくにかつながさという。
天孫がこれに尋ねた。
「ここは誰の国か」
事勝国勝長狭ことかつくにかつながさは、
「ここは長狭ながさが住む国です。けれども、今は天孫に奉ります」
と答えた。
天孫がまた尋ねる。
「あの波頭の立っている波の上に、大きな御殿を建て、手玉もころころと機織はたおる少女は誰の娘か?」
事勝国勝長狭ことかつくにかつながさは、
大山祇神おおやまつみのかみの娘たちで、姉を磐長姫いわながひめ。妹を木花咲耶姫このはなさくやひめと言います。またの名を豊吾田津姫とよあたつひめです」
ということで、云々があった。

皇孫はそこで豊吾田津姫とよあたつひめを召された。
そしてついに火酢芹命ほのすせりのみことを生み、次に火折尊ほおりのみことを生んだ。
またの名は彦火火出見尊ひこほほでみのみことである。

母の誓いがはっきりと証明している。
確かに、これは皇孫の胤であると。
しかし、豊吾田津姫とよあたつひめは皇孫を恨んで、喋ろうともしなかった。
皇孫は悲しみ、歌を詠んだ。

オキツモハ、へニハヨレドモ、サネ卜コモ、アタハヌカモヨ、ハマツチ卜リヨ。

沖の藻は浜辺に寄るけれど、わが思う妻は私の方に寄ろうとせず、私に寝る床さえも与えてくれない。浜千鳥よ、二人一緒にいるお前たちが羨ましいことだ。


別の言い伝え(第七)によると、高皇産霊尊たかみむすひのみことの娘として、天万栲幡千幡姫あまよろずたくはたちはたひめ
一説では、高皇産霊尊たかみむすひのみことの子の万幡姫よろずはたひめの子である玉依姫命たまよりひめ
この神が天忍骨命あまのおしほねのみことの妃となって、天之杵火火置瀬尊あまのぎほほおきせのみことを生んだ。

あるいは勝速日命かちはやひのみことの子である天大耳尊あまのおおしみみのみことが、丹舄姫にくつひめを娶とって、火瓊璦杵尊ほのににぎのみことを生んだという。
あるいは高皇産霊尊たかみむすひのみことの娘、栲幡千幡姫たくはたちはたひめが、その子として火瓊瓊杵尊ほのににぎのみことを生んだという。
あるいは、天杵瀬尊あまのきせのみこと吾田津姫あたつひめを娶とって、火明命ほのあかりのみことを生み、次に火夜織命ほのよおりのみこと、次に彦火火出見尊ひこほほでみのみことを生んだとされる。


別の言い伝え(第八)によると、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊まさかあかつかちのはやひあまのおしほみみのみことは、高皇産霊尊たかみむすひのみことの娘、天万杵幡千幡姫あまよろずたくはたちはたひめを娶とって子を生んだ。
これを天照国照彦火明命あまてるくにてるひこほのあかりのみことと名づけた。
これが尾張連おわりのむらじらの遠祖である。

次に天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊あめにぎしくににぎしあまつひこほのににぎのみことを生んだ。
この神は大山祇神おおやまつみのかみの娘、木花開耶姫このはなさくやひめを娶とって子を生ませた。
これが火酢芹命おのすせりのみこと彦火火出見尊ひこほほでみのみことである。

彦火火出見尊と火闌降命

兄の火闌降命ほのすそりのみことは、もともと海の幸を得る力を備えていた。
弟の彦火火出見尊ひこほほでみのみことは、もともと山の幸を得る力を備えていた。
その兄弟二人は相談し、
「ためしに二人の幸を取りかえてみよう」
と言った。

そして実際に取り換えてみたが、それぞれの幸を得られなかった。
兄は後悔して弟の弓矢を返し、自分の釣針を返してくれといった。
弟はすでに兄の釣針を失っていて、探し求める法もなかった。

そこで別に新しい針を作って兄に与えた。
兄はこれを承服せず、もとの針を要求した。

弟は悩んで、自分の太刀で新しい針を鍛えて、みのに一杯に盛って贈った。
それでも兄は怒って、
「私のもとの針でなければ、たくさん寄越しても受取れない」
といって、さらに責めた。

それで彦火火出見尊ひこほほでみのみことは、憂え苦しむことが深かった。
海のほとりに行って呻き悲しんでいるとき、塩土老翁しおつつのおじに会った。
老翁おじは、
「なぜこんなところで悲しんでいるのですか」
と問うた。
彦火火出見尊ひこほほでみのみことは事の始終を告げた。

老翁おじは、
「心配には及びません。私があなたのために考えてあげましょう」
と言って、無目籠(まなしかたま)を作って、彦火火出見尊ひこほほでみのみことを籠の中に入れ海に沈めた。
すると、ひとりでに美しい小さい浜に着いた。

そこで籠を捨てて出ていくと、たちまち海神の宮わたつみのみやに着いた。
その宮は立派な垣が備わって、高殿たかどのが光り輝いていた。
門の前に一つの井戸があり、井戸の上に一本の神聖なかつらの木があり、枝葉が繁茂していた。

彦火火出見尊ひこほほでみのみことは、その木の下を歩きさまよった。
しばらくすると一人の美人が、戸を押し開いて出てきた。
そして立派な椀に水を汲もうとしている。
彦火火出見尊ひこほほでみのみことがそれを見ていると、美人は驚いて中に入って、その父母に言う。
「一人の珍しい客人がおられます。門の前の木の下です」

そこで海神わたつみは、何枚もの畳を敷いて、導き入れた。
座につかれると、その来られたわけを尋ねた。
彦火火出見尊ひこほほでみのみことは、詳しく訳を話された。

海神わたつみは大小の魚を集めて問いだたした。
皆は、
「わかりません。ただ赤目あかめ)がこの頃、ロの病があって来ておりません」
とのこと。
赤目を呼び出してそのロを調べると、やはり、失くなった針を見つけ出した。
そして、彦火火出見尊ひこほほでみのみことは海神の娘の豊玉姫とよたまひめを娶とられた。

海宫わたつみのみやに留まること三年になった。
そこは安らかで楽しかったが、やはり彦火火出見尊ひこほほでみのみことにはくにを思う心があった。
それで憂いひどく嘆かれた。

豊玉姫とよたまひめはそれを聞き、父に言った。
「天孫はひどく悲しんで度々嘆かれます。きっと郷土を思って悲しまれるのでし よう」

海神わたつみ彦火火出見尊ひこほほでみのみことを呼んで、静かに語った。
「天孫がもし国に帰りたいと思われるならば、お送りして差上げます」
そして手に入れた針を渡し、
「この針をあなたの兄に渡されるときに、こっそり針に『貧釣まじち』と言ってからお渡しなさい」
と言った。

また潮満玉しおのみちたま潮涸玉しおひのたまを授けて、
潮満玉しおのみちたまを水につけると、潮がたちまち満ちるでしよう。これであなたの兄を溺れさせることができます。もし兄が悔いて救いを求めたら、反対に潮涸玉しおひのたまを水につければ、潮は自然に引くから、これで救いなさい。このように攻め悩ませれば、あなたの兄は降参することでしょう」
と言った。

まさに帰ろうとするときになって、豊玉姫とよたまひめが天孫に語って、
「私はすでに孕んでいます。間もなく生まれるでしよう。 私は風や波の速い日にきっと浜辺に出ますから、どうか私のために産屋を作って待っていて下さい」
と言った。

彦火火出見尊ひこほほでみのみことは元の宮に還られて、しっかり海神わたつみの教えに従った。
このため、兄の火闌降命ほのすそりのみことは災厄に悩まされて自ら降伏して、
「今後、私はお前の俳優わざおぎ誰かに仕えて、演技などをする者)の民になるから、どうか許してくれ」
といわれた。
彦火火出見尊ひこほほでみのみことはその願いのままに、これを許した。
その火闌降命ほのすそりのみことは、吾田君小橋あたのきみおばしの遠祖である。

後に、豊玉姫とよたまひめは約束どおりにその妹の玉依姫たまよりひめを引き連れて、風波を乗り越えて海辺にやってきた。
子が生まれる時になって頼まれたのが、
「私が子を生む時に、どうか見ないでください」
というものだった。

しかし、天孫は我慢できなくてこっそりと行って覗かれた。
すると豊玉姫とよたまひめは出産の時に体が竜になっていた。
そして大変これを恥じて、
「もし私を恥かしめることがなかったら、海と陸とは相通じて永久に隔絶することはなかったでしよう。しかしもう恥をかかされたから、どうしてこれから睦じくできましょうか」
と言って草で子を包み、海辺に棄てて、 海路を閉じてすぐに帰ってしまった。
それでその子を名づけて、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊ひこなぎさたけうがやふきあえずのみことという。

その後、久しく経ってから彦火火出見尊ひこほほでみのみこと崩御ほうぎょされた。
これを日向の高屋山上陵たかやのやまのうえのみささぎに葬った。


別の言い伝え(第一)によると、兄の火酢芹命ほのすせりのみことは、よく海の幸を得ることができ、弟の彦火火出見尊ひこほほでみのみことはよく山の幸を得ることができた。

時に、兄弟は互いにその幸を取替えようと思った。
そこで兄は弟の幸弓さちゆみを持って山に入り、獣を求めた。
しかし獣の足跡も見つけられなかった。

弟は兄の幸針さちはりを持って海に行き、魚を釣った。
しかし何も獲るところがなかった。
そしてその針を紛失した。

兄は弓矢を返して、自分の針を返せと責めた。
弟は困って差していた太刀をつぶして、 針を作りかごに一杯盛って兄に返した。
兄はそれを受取らず、
「私の幸針さちはりが要るのだ」
と言った。
彦火火出見尊ひこほほでみのみことは探すところも判らず、憂え悲しんで海辺に行き、たたずみ嘆いていた。

すると一人のおきなが現れ、自ら塩土老翁しおつつのおじと名乗った。
塩土老翁しおつつのおじが尋ねた。
「あなたは誰ですか。 何故ここで悲しんでいますか」

彦火火出見尊ひこほほでみのみことは詳しくわけをのべた。
老翁おじは袋の中の櫛をとって地に投げると、沢山の竹林になった。
その竹をとって、目の荒い籠を作り、彦火火出見尊ひこほほでみのみことをその中に入れ、海へ入らせた。
あるいは無目堅間まなしかたま編み目が細かい籠)で、水の上に浮かぶいかだを作り、細縄で彦火火出見尊ひこほほでみのみことを結いつけて海に沈めた。

海の底にはちょうど良い小浜があった。
そこで浜伝いに進まれると、海神豊玉彦わたつみとよたまひこの宮に着かれた。
その宫は城門高く飾られ、楼閣壮麗であった。

門の外に井戸があり、井戸のそばに桂の木があった。
木の下に立っておられると、しばらくして一人の美女が現れた。
この美女は容貌世にすぐれ、侍女を多く従えて中から出てきた。

そして玉の壺で水を汲もうとして上を見ると、彦火火出見尊ひこほほでみのみことを見られた。
驚き帰ってその父に言われた。
「門の前の井戸のそばの木の下に、一人の貴人がおられます。人品が並みの人ではありません。もし天から降れば天のかげがあり、地下から上れば地のかげがあるでしょう。これは本当に妙なる美しさです。虚空彦そらつひこというのでしょうか」

ある説では、豊玉姫とよたまひめの侍者が、玉の釣瓶つるべで水を汲むが、どうしても一杯にならない。井戸の中を除くと、逆さまに人の笑った顔が映っていた。それで上を見ると、一人の麗わしい神がいて、桂の木に寄り立っていた。そこで中に入ってその王に告げた、とも言われている。

豊玉姫とよたまひめは人を遣わして問うた。
「客人はどなたですか。 何故ここにおいでになるのですか」

彦火火出見尊ひこほほでみのみことは答えた。
「私は天つ神あまつかみの孫です」
そしてやってきたわけを話された。

海神わたつみは迎え拝んで中に入れ、丁寧にお仕えした。
そして娘の豊玉姫とよたまひめをその妻とした。

海宮わたつみのみやに留まること三年になった。
この後、彦火火出見尊ひこほほでみのみことがしばしば嘆いておられることがあった。
豊玉姫とよたまひめが問う。
「天孫はもしや、元の国に帰りたいと思っておられるのではありませんか」

彦火火出見尊ひこほほでみのみことは答えた。
「そうなんです」

豊玉姫とよたまひめは父の神に、
「ここにおいでになる貴人は、上つ国へ帰りたいと思っておられます」
と伝えた。
海神わたつみはそこで海の魚どもをすべて集めて、その針を求め尋ねられた。
一匹の魚が答えていうのに、
赤女あかめ赤鯛)は永らくロの病いになっています。あるいは赤女あかめがこの針を呑んだのではないでしようか」

そこで赤女あかめを呼んでそのロを見ると、針がやはり口中にあった。
これをとって彦火火出見尊ひこほほでみのみことに授けた。
そして、
「釣針をあなたの兄さんへ渡されるときに、呪って言いなさい。『貧乏のもと。飢えのはじめ、苦しみのもと』といってそれから渡しなさい。また、あなたの兄が海を渡ろうとするときに、私は必ず疾風を送り波を立てて、兄を溺れさせ、たしなめましょう」
と言われた。

そして彦火火出見尊ひこほほでみのみことを大鰐にのせ、元の国にお送りされた。
これより先、別れようとするときに、豊玉姫とよたまひめがゆっくりと語り出して、
「私はもう孕んでいます。風波の盛んな日に海辺に出ておりますから、どうか私のために産屋を作って待っていて下さい」
と言われた。

この後に豊玉姫とよたまひめは、やはりその言葉の通りやってきた。
彦火火出見尊ひこほほでみのみことに、
「私は今晩、子を生むでしよう。どうかご覧にならないで下さい」
と言われた。

しかし彦火火出見尊ひこほほでみのみことは聞き入れられず、くしの先に火をつけてその明りでご覧になった。
豊玉姫とよたまひめは大きなわにの姿になって、這い回っていた。
見られて辱かしめられたのを恨みとし、直ちに海郷かいきょうに帰った。

その妹の玉依姫たまよりひめを留めておいて、子を養育させた。
子の名を彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊ひこなぎさたけうがやふきあえずのみことという訳は、その海辺の産屋に、の羽でもって屋根を葺くのに、まだ葺き終わらぬうちに子が生まれたので、名づけたのである。


別の言い伝え(第二)によると、門の前に一つの井戸があった。
その井戸のそばに枝のよく茂った杜の木があった。
彦火火出見尊ひこほほでみのみことは跳ね上って、その木にのぼり立っておられた。

そのとき、海神わたつみの娘の豊玉姫とよたまひめが、手に玉の碗を持ってやってきて、水を汲もうとした。
ちょうど人の姿が井戸の中に映っているのを見て、仰ぎ見られた。
そのとき、驚いて碗を落とされた。
碗は破れ砕けたが顧みないで、戻って両親に、
「私は一人のひとが井戸のそばの木の上にいるのを見ました。顔色美しく容貌も上品で、先ず常人ではありません」
と伝えた。

父の神はこれを聞き不思議に思い、八重畳やえだたみを敷いて迎え入れられた。
座につかれると、どうしてここにお出でになったかと問うた。
彦火火出見尊ひこほほでみのみことはことの訳を詳しく話された。
海神わたつみは憐れみの心を起こして、大小の魚を全部集めて尋ねられた。
皆が言うには、
「よく知りませんが、ただ赤女あかめだけがロの病があって来ておりません」
というものだった。

また別の説では、
いなぼら)がロの病があるということです」
というものがあり、急いで呼んでそのロを探ると、紛失した釣針がすぐ見つかった。
そこで海神わたつみは、
いなよ、お前はこれから餌を食べてはならぬ。また、天孫が勧めるご膳に加わることはできない」
と禁じたとされる。
それでいなをご膳に進めないのは、これが由来になっている。

海神わたつみは、彦火火出見尊ひこほほでみのみことが帰ろうとされるとき、
「今、天つ神あまつかみの孫が恐れ多くも私のところへお出で下さった。心の中の喜びは忘れることができません」
と言われた。
そして思いのままに潮を充たせる玉と、潮をひかせる玉を、その針に添えて奉って、
「遠く隔たっても、どうか時に思いだして、 忘れてしまわないようにして下さい」
と言われた。
そして、
「この針をあなたの兄に与えられ るときに、『貧乏神の針、滅亡の針、衰える針』と称え、言い終ったら後の方に投げ棄てて与えなさい。向かい合って授けてはいけません。もし兄が怒ってあなたを損おうとするなら、 潮満玉しおのみちたまを出して溺れさせ、苦しんで助けてくれと乞うたら、潮干玉しおひのたまを出して救いなさい。 このように責め悩ませれば、自ずから従われるでしよう」
と言われた。

彦火火出見尊ひこほほでみのみことは、 その玉と針とを貰って、もとの宮に帰られた。
海神わたつみの教えの通りに、まずその針を兄に与えられた。
兄は怒って受けとらなかった。
そこで弟は潮満玉しおのみちたまを出すと、潮が大きく充ちてきて兄はおぼれた。
兄は助けを求めて、
「私はあなたにお仕えしてやっこ奴隷)なりましょう。どうかお助け下さい」
と言った。
弟が潮干玉しおひのたまを出すと潮はひいて、兄はもとに返った。

後になると、兄は前言を改めて、
「私はお前の兄である。どうして人の兄として、弟に仕えることができようか」
と言った。

弟はそのとき潮満玉しおのみちたまを取り出した。
兄はこれを見て、高山に逃げ登った。
潮は山をも呑んだ。
兄は高い木に登った。
潮はまた木を没した。
兄は全く困って逃げるところもなく、罪に伏して、
「私は過ちをした。今後はあなたの子孫の末々まで、あなたの俳人わざひとになりましょう」
と言った。
また別の説では、
狗人いぬびととして仕えます。どうか哀れんで下さい」
と言ったとされる。

弟が潮干玉しおひのたまを出すと、潮はおのずから引いた。
そこで兄は弟が、海神わたつみの徳を身につけていることを知って、ついにその弟に服従した。
それで火酢芹命ほのすせりのみこと後裔こうえいである諸々の隼人たちは、今に至るまで天皇の宮の垣のそばを離れないで、吠える犬の役をしてお仕えしているのである。
世の中の人が失せた針を催促しないのは、これがその由来である。


別の言い伝え(第三)によれば、兄の火酢芹命ほのすせりのみことは、海の幸を得ることができたので、海幸彦うみさちひこと名づけた。
弟の彦火火出見尊ひこほほでみのみことは、山の幸を得ることができたので、山幸彦やまさちひこといった。

兄は、風が吹き雨が降る度にその幸を失った。
弟は風が吹き雨が降っても、その幸が違わなかった。
兄が弟に、
「私は試しに、お前と幸を取り替えてみたいと思う」
と相談した。
弟は承諾して取り替えた。

兄は弟の弓矢を持って、山に入り獣を狩りし、弟は兄の釣針をもって、海に行き魚を釣った。
しかしどちらも幸を得られないで空手で帰ってきた。
兄は弟の弓を返して、自分の釣針を返すよう求めた。
弟は針を海中に紛失して、探し求める方法がなかった。
それで別に新しい釣針を沢山作って兄に与えた。
兄は怒って受け取らず、もとの針を返すよう責めた、という云々がある。

このときに、弟は海辺に行き、うなだれ歩いて悲しみ嘆いていた。
そのとき川鷹かわかりが罠にかかって苦しんでいた。
それを見て憐れみの心を起こして解き放してやった。
しばらくすると、塩土老翁しおつつのおじがやってきて、無目堅間めなしかたまの小船を作って、彦火火出見尊ひこほほでみのみことをのせて、海の中に放った。

すると自然に水中に沈んだ。
たちまちよい路が通じて、その路に従って行くと、ひとりでに海神の宮わたつみのみやに着いた。
このとき、海神わたつみは自ら出迎え、招き入れて海驢あしかの皮八枚を敷いて、その上に座らせた。
また、数多くの物を並べた机を用意し、主人としての礼を尽した。

そしておもむろに問うた。
「天孫はなぜ恐れ多くもお出で下さいましたか?」
ある言い伝えには、
「この頃、我が子が語りますのに、天孫が海辺で悲しんでおられるというのですが、本当かどうか分らなかったのですが、そんなことがありましたか」
と尋ねたとも言われる。

彦火火出見尊ひこほほでみのみことは、詳しく事の始終を述べられた。
そして、そこに留まり住まれた。
海神わたつみはその子の豊玉姫とよたまひめを娶あわせた。

二人は愛情こまやかに過され、三年も経った。
帰ろうとされるときに、海神が鯛女たいめを召して、そのロを探られると、釣針が得られた。
この針を彦火火出見尊ひこほほでみのみことたてまつられた。
そして、
「これをあなたの兄に与えるときに、『つまらない針、旨く行かぬ針、貧乏の針、愚かな針』と言いなさい。言い終ったら後の方へ投げなさい」

わにを呼び集めて問うた。
「天孫が今お還りなさる。お前達は何日間でお送りできるか?」
沢山のわにはそれぞれに、長くあるいは短かい日数を述べた。
その中の一尋鰐ひとひろわには、
「一日でお送りすることができます」
そこで、一尋鰐ひとひろわにに命じてお送りさせられた。

また潮満玉しおのみちたま潮干玉しおひのたまの二種の宝物を奉って、玉の使い方をお教えした。
「兄が高い所の田を作られたら、あなたは窪んだ低い田を作りなさい。兄が窪んだ低い田を作ったら、あなたは高い所の田を作りなさい」

海神わたつみはこのように誠を尽してお助けした。
彦火火出見尊ひこほほでみのみことは帰ってきて、海神わたつみの教えの通りに実行した。
その後、火酢芹命ほのすせりのみことは、日々にやつれていき、憂いてこう言った。
「私は貧乏になってしまった」
そして弟に降伏された。
弟が潮満玉しおのみちたまを出すと、兄は手を挙げて溺れ苦しんだ。
潮干玉しおひのたまを出すと元のように変ることを繰り返されたからである。

これよりさき、豊玉姫とよたまひめが天孫に、
「私は妊娠しました。天孫の御子を海の中に生むことはできません。子を生むときには、きっとあなたの所へ参ります。私のために産屋うぶやを海辺に作って待っていて下さい」
と言った。

彦火火出見尊ひこほほでみのみことくにに帰って、の羽で屋根をいて産屋を作った。
屋根をまだき終らぬうちに、豊玉姫とよたまひめは大亀に乗って、妹の玉依姫たまよりひめをつれ、海を照らしながらやってきた。
もう臨月で、子は産まれる直前であった。
それでき上るのを待たないで、すぐに中に入られた。

落ち着いた豊玉姫とよたまひめは、天孫に、
「私が子を生む時にどうか見ないで下さい」
と言われた。
天孫は心中そのことばを怪しんで、こっそり覗かれた。
すると姫は八尋鰐やひろわにに変わっていた。
しかも、天孫が覗き見されたことを知って、深く恥じ恨みを抱いた。

子が生まれてから天孫が行って問われて、
「子の名前を何とつけたら良いだろうか?」
といわれた。
答えていうのに、
彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこととつけましょう」
と言う。

言い終ると海を渡ってすぐに去った。
そのとき、彦火火出見尊ひこほほでみのみことは歌っていわれた。

オキツトリ、カモツクシマニ、ワガイネシ、イモハワスラシ、ヨノコ卜ゴトモ。

沖にいる鴨の寄るあの島で、私が一緒に寝た妹のことは、世のかぎりまで忘れることはできないだろう。

また別の説には、彦火火出見ひこほほでみのみこと尊は、女たちを呼び出して、乳母、湯母、飯かみ(飯を嚙んで子に与える役)、湯人ゆえ子の入浴をさせる役)を決めて、すべて諸々の役目を完備して養育したという。
ときによっては、仮りに他の女を使って乳母としたこともあった。
これが世の中で乳母を決めて、子を育てることの始まりだとされる。

この後に、豊玉姫とよたまひめは、その子がとても立派であることを聞いて、憐れみの心が募り、また帰って育てたいと思った。
しかし、それは義にかなわぬことなので、妹の玉依姫たまよりひめを遣わして養わせた。
そのとき豊玉姫とよたまひめ玉依姫たまよりひめに寄せて、返歌を奉った。

アカタマノ、ヒカリハアリ卜、ヒ卜ハイへト、キミガヨソヒシ、タフトクアリケリ。

赤玉の光はすばらしいと人はいうけれども、あなたのお姿はそれよりも立派だと思います。

この贈答の二首を名づけて挙歌あげうたという。


別の言い伝え(第四)によると、兄の火酢芹命ほのすせりのみことは山の幸を得て、弟の火折尊ほおりのみことは、海の幸を得ていたとされる。
弟が憂え悲しんで海辺におられるとき、塩土老翁しおつつのおじに会った。
老翁おじは、
「何故そんなに悲しまれるのですか」
と問うた。
火折尊ほおりのみことはこれこれ云々と答えた。

老翁おじは、
「悲しまれますな。私が計り事をしてあげましよう」
と言った。
そして、
海神わたつみの乗る駿馬しゅんば八尋鰐やひろわにです。これがそのはたを立てて橘の小戸におります。私が彼と一緒になって計り事をしましよう」
といって火折尊ほおりのみことをつれて、共に行きわにに出会った。
わにが言うに、
「私は八日の後に、確かに天孫を海神の宮わたつみのみやにお送りできます。しかし、我が王の駿馬は一尋鰐ひとひろわにです。これはきっと一日の中にお送りするでしょう。だから今、私が帰って彼を来させましょう。彼に乗って海に入りなさい。海に入られたら、海中に自ずから良い小浜があるでしょう。その浜の通りに進まれたら、きっと我が王の宮に着くでしょう。宮の門の井戸の上に、神聖なかつらの木があります。その木の上に乗っていらっしゃい」
とのことだった。
言い終わると、すぐ海中に入って行った。

そこで、天孫はわにの言った通りに、八日間待たれた。
しばらくして、一尋鰐ひとひろわにがやってきた。
それに乗って海中に入った。
すべて前のわにの教えに従った。
そのとき、豊玉姫トヨタマヒメの侍者が、玉の碗をもって井戸の水を汲もうとすると、人影が水底に映ってい るのを見て、汲みとることができず、上を仰ぐと天孫の姿が見えた。

それで中に入って王に告げた、
「私は、我が大王だけが優れて麗しいと思っていましたが、しかし今、一人の客を見ると、もっと優れていました」
海神わたつみがそれを聞いて、
「ためしに会ってみよう」
と言って、三つの床を設けて招き入れられた。

そこで天孫は入口の床では、 両足を拭かれた。
次の床では、両手をおさえられた。
内の床では、真床覆衾まとこおうきぬの上に、ゆったりと座られた。
海神わたつみはこれを見て、この人が天神の孫であることを知った。
そして、ますます尊敬した、という云々があった。

海神わたつみ赤女あかめロ女くちめを呼んで尋ねられた。
するとロ女はロから針を出して奉った。
赤女あかめ赤鯛あかだいロ女くちめいなぼら)である。

海神わたつみは、針を彦火火出見尊ひこほほでみのみことに授けて、
「兄に針を返す時に天孫は、『あなたが生まれる子の末代まで、貧乏神の針、ますます小さく貧乏になる針』と言いなさい。言い終って三度唾を吐いて与えなさい。また兄が海で釣りをするときに、天孫は海辺におられて風招かざおぎをしなさい。風招かざおぎとはロをすぼめて息を吹き出すことです。そうすると私は沖つ風おきつかぜ辺つ風へつかぜを立てて、速い波で溺れさせましょう」
と言った。

火折尊ほおりのみことは帰ってきて、海神わたつみの教えの通りにした。
兄が釣をする日に、弟は浜辺にいて、うそぶきをした。
すると疾風はやてが急に起こり、兄は溺れ苦しんだ。
生きられそうもないので遥かに弟に救いを求めて、
「お前は長い間海原で暮らしたから、きっと何かよいワザを知っているだろう。どうか助けてくれ。私を助けてくれたら、私の生む子の末代まで、あなたの住居の垣のあたりを離れず、俳優わざおぎの民となろう」
と言った。

そこで弟はうそぶくことをやめて、風もまた止んだ。
それで兄は弟の徳を知り、自ら罪に服しようとした。
しかし弟は怒っていてロをきかなかった。

そこで兄はふんどしをして、赤土あかつちを手のひらと額に塗り、
「私はこの通り身を汚した。永久にあなたのための俳優わざおぎになろう」
と言い、そこで足をあげて踏みならして、そのときの苦しそうな真似をした。

始め、潮が差して足を浸してきたときに、爪先立ちをした。
膝についたときには、足をあげた。
股についたときには、走り回った。
腰についたときには、腰をなで回した。
脇に届いたときには、手を胸におき、首に届いたときには、手を上げてひらひらさせた。
それから今に至るまで、その子孫の隼人たちは、この所作をやめることがない。

これより先、豊玉姫とよたまひめが海から出てきて、子を産もうとするときに、皇孫に頼んでいわれるのに、という云々があった。
皇孫はこれに従われなかった。
豊玉姫とよたまひめは大いに恨んで、
「私の言うことを聞かないで、私に恥をかかせた。だから今後、私の召使いが、あなたの所に行ったら返しなさるな。あなたの召使いが、私のもとに来てもまた返さないから」
と言った。

これより先、豊玉姫とよたまひめが海から出てきて、子を産もうとするときに、皇孫に頼んでいわれるのに、という云々があった。
皇孫はこれに従われなかった。
豊玉姫とよたまひめは大いに恨んで、
「私の言うことを聞かないで、私に恥をかかせた。だから今後、私の召使いが、あなたの所に行ったら返しなさるな。あなたの召使いが、私のもとに来てもまた返さないから」
と言った。
ついに真床の布団とかやでその子を包み、渚において海中に入った。
これが海と陸との相通わないこ との始まりである。

一説には、子をなぎさに置くのは良くないからと、豊玉姫命とよたまひめのみことは自分で抱いて去ったという。
長らくして後に、
「天孫の御子を海の中においてはいけない」
といって、玉依姫たまよりひめに抱かせて送り出した。

はじめ、豊玉姫とよたまひめは別れるときに、恨み言をしきりに言われた。
それで火折尊ほおりのみことは、また会うことのないのを知られて、歌を贈られた。
この歌は前述されている。

彦波瀲武鷓鷀草葺不合尊と玉依姫の子

彦波瀲武鷓鷀草葺不合尊ひこなぎさたけうがやふきあえずのみことは、そのおばである玉依姫たまよりひめを妃とされた。
そして、彦五瀬命ひこいつせのみことを生まれた。
次に、稲飯命いなひのみこと
次に、三毛入野命みけいりのみこと
次に、神日本磐余彦尊かむやまといわれびこのみこと
全部で四人の男神を生まれた。
久しい後に、彦波瀲武鷓鷀草葺不合尊ひこなぎさたけうがやふきあえずのみことは、西洲の宮にしのくにのみやでお隠れになった。
それで日向ひむか吾平山上陵あひらのやまのうえのみささぎに葬った。


別の言い伝え(第一)によると、まず彦五瀬命ひこいつせのみことを生み、次に稲飯命いなひのみこと
次に三毛入野命みけいりのみこと
次に狭野尊さののみこと、 のちの神日本磐余彦尊かむやまといわれびこのみことという。
狭野というのは、年若い時の名である。

後に、天下を平定して八洲を治められた。
それでまた名を加えて、神日本磐余彦尊かむやまといわれびこのみことというのである。


別の言い伝え(第二)によると、まず五瀬命いつせのみことを生まれ、次に三毛野命みけのみこと
次に稲飯命いなひのみこと
次に磐余彦尊いわれびこのみこと
または神日本磐余彦火火出見尊かむやまといわれびこほほでみのみことをお生みになった。


別の言い伝え(第三)によると、まず彦五瀬命ひこいつせのみことを生み、次に稲飯命いなひのみこと
次に神日本磐余彦火火出見尊かむやまといわれびこほほでみのみこと
次に稚三毛野命みけいりのみことをお生みになった。


別の言い伝え(第四)によると、まず彦五瀬命ひこいつせのみことを生み、次に磐余彦火火出見尊いわれびこほほでみのみこと
次に彦稲飯命いなひのみこと
次に三毛入野命みけいりのみことをお生みになった。

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