日本書紀・日本語訳「第十三巻:允恭天皇 安康天皇」

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允恭天皇 雄朝津間稚子宿禰天皇

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即位の躊躇

雄朝津間稚子宿禰天皇オアサヅマワクゴノスクネノスメラミコト反正天皇はんぜいてんのうの同母弟である。
天皇は幼童の頃から、ご成長後も恵み深く恭しいお心であった。
壮年になって重い病をされ、動作に難があった。

五年春一月、反正天皇がなくなられた。
群卿まちきみたちが相談した。
「今、仁徳天皇の御子は、 雄朝津間稚子宿禰皇子オアサヅマワクゴノスクネノミコ大草香皇子オオクサカノミコがいらっしゃるが、雄朝津間稚子宿禰皇子オアサヅマワクゴノスクネノミコは年上で情深い心でいらっしゃる」
と言った。
それで吉日を選んで、御前に跪き、天皇の御璽みしるしを奉った。

しかし、雄朝津間稚子宿禰皇子オアサヅマワクゴノスクネノミコは、
「私の不幸は、久しい期間重い病にかかって、よく歩くこともできないことである。また、私は病いを除こうとして、密かに荒療治もしてみたが、なお少しもよくならない。それで先帝も私を責めて、『お前は病気であるのに、勝手に身を痛めるようなことをした。親に従わぬ不幸、これより甚だしきはない。もし長生きしたとしても、天つ日嗣あまつひつぎを治すことはできぬだろう』とおっしゃった。また、私の兄の二人の天皇も、 私を愚かであるとして軽んじられた。群卿まちきみたちも知っているところである。天下というものは大器であり、帝位は大業である。また、人民の父母となるのは、賢聖の人の天職である。どうして愚か者に堪えられようか。もっと賢いきみを選んで立てるべきである。私は適当ではない」
と申された。
群臣くんしんは再拝して、
「帝位は長く空しくあってはなりません。天命は拒むことはできません。今、王が時に逆らい、位に就くことをされなければ、臣等は人民の望みが絶えることを恐れます。願わくは、たとえ厭わしいと思召すとも、帝位にお就き下さい」
と申し上げた。

雄朝津間稚子宿禰皇子オアサヅマワクゴノスクネノミコは、
「国家を任されるのは重大なことである。自分は病いの身で、とても堪えることはできない」
と承知されなかった。
そこで群臣くんしんは固くお願いして、
「手前たちが考えますのに、大王おおきみが皇祖の宗廟そうびょうを奉じられることが、最も適当です。天下万民も皆そのように思っています。どうかお聞き届け下さい」
といった。

元年冬十二月、妃である忍坂大中姫命オシサカオオナカツヒメノミコトが、群臣くんしんの憂い嘆くのをいたまれて、自ら洗手水おおみてみずをとり捧げもって、皇子のお前にお進みになった。
そして申し上げた。
「大王は辞退なさって即位をされません。空位のままで年月を経ることになります。群臣くんしん百寮もものつかさは憂えて、成すべきを知りません。願わくば人々の願いに従って、強いて帝位にお就き頂きたく存じます」

しかし、皇子は聞き入れられず、背を向けて何も言われない。
大中姫命オオカナツヒメノミコトは畏まり、退こうとされないでお侍りになること四〜五剋(約一時間)以上にも及んだ。
時は、歳末の頃で、風も烈しく寒かった。
大中姫オオナカツヒメの捧げたまりの水が、溢れて腕に凍るほどで、寒さに堪えられず死にそうであった。
皇子も驚き顧みられ、これを助け起こし、
日嗣ひつぎの位は重いことである。たやすく即くことはできぬので、今まで同意しなかった。しかし今、群臣くんしんたちの請うことも明らかな道理である。どこまでも断り続けることもできない」
と言われた。

大中姫命オオナカツヒメノミコトは仰ぎ喜び、群卿まちきみたちに告げられた。
「皇子は群臣くんしんの願いをお聞き入れ下さることになった。今すぐ天皇の璽符みしるしを奉りましょう」
群臣くんしんは大いに喜び、即日、天皇の璽符みしるしを捧げて再拝し奉った。

皇子は、
群卿まちきみたちは天下のために私を請うてくれた。私もどこまでも辞退してばかりいられない」
とおっしゃって、ついに帝位にお就きになった。

この年、太歳壬子たいさいみずのえね

闘鶏国造

二年春二月十四日、忍坂大中姫オシサカオオナカツヒメを立てて皇后とされた。
この日に、皇后のために刑部おしさかべを定めた。
皇后は、木梨軽皇子キナシノカルノミコ名形大娘皇子ナガタノオオイラツメノヒメミコ境黒彦皇子サカイノクロヒコノミコ穴穂天皇アナホノスメラミコト安康天皇あんこうてんのう)、軽大娘皇女カルノオオイラツメノヒメミコ八釣白彦皇子ヤツリノシロヒコノミコ大泊瀬稚武天皇オオハツセノワカタケノスメラミコト雄略天皇ゆうりゃくてんのう)、但馬橘大娘皇女タジマノタチバナノオオイラツメノミコ酒見皇女サカミノヒメミコをお生みになった。

以前、皇后がまだ母と一緒に家にお出でになった頃、一人でそのの中で遊んでおられた。
そのとき、闘鶏国造つげのくにのみやつこがそばの道を通り、馬に乗って垣根越しに語りかけ、嘲って言った。
「あんたによくそのが作れるのかね」
また、
「さあ、刀自とじ、そこの野蒜のびるを一本くれ」
と言った。
それで、一本の野蒜のびるヒガンバナ科の花)を取って、馬に乗っている者にやった。
「何のために野蒜のびるを所望するのか」
と言われた。
闘鶏国造つげのくにのみやつこは、
「山に行く時にヌカガ(人の目の周りを飛び回る小さい羽虫)を追い払うのだ」
と言った。
大中姫オオナカツヒメは心中、馬に乗った者の言葉の無礼なのを不快に思われ、
「お前、私は忘れないよ」
と言われた。

この後、皇后の位になられた年、馬に乗って野蒜をくれと言った者を探し、昔の罪を責めて殺そうかと思われた。
しかし、その男は額を地に付けてお願いし、
「臣の罪は誠に死罪に当ります。けれども、その時には、そんな貴いお方になられようとは思いもしませんでしたので」
と言った。
皇后は死罪はやめて、姓を下して稲置いなきとされた。

三年春一月一日、使者を遣わして良い医者を新羅しらぎに求められた。
秋八月、新羅しらぎから医者がきた。
そして、天皇の病気の治療に当たった。
いくばくもせぬうちに、病は治った。
天皇は大変喜ばれ、医師に厚くお礼をして国に帰された。

氏・姓を糾す

四年秋九月九日、みことのりして、
「古より、国がよく治っていた時は、人民も所を得て、氏姓が誤まることもなかった。今、私が践祚せんそして四年であるが、上下相争って百姓も安らかでない。 誤って自分の姓を失う者もある。あるいは故意に高い氏を詐称せんそする者がある。よく治まらないのはこういうことによる。私は微力といえども、この誤りを正さねばならぬ。群臣くんしんらはよく議定せよ」
と言われた。
群臣くんしん一同は言った。
「陛下が過ちを挙げ、不正を正して、氏姓を定められれば、私どもは命がけで取組みます」

二十八日みことのりして、
群卿まちきみたち百寮もものつかさおよび諸の国造くにのみやつこらは皆それぞれに『帝の後裔であるとか、天孫降臨に供奉して天降ったもの』とか言う。しかし、開闢かいびゃく以来、万世を重ね、一つの氏から多数の氏姓が生まれ、その実を知り難い。そこで、諸々の氏姓の人たちは、斎戒沐浴さいかいもくよくし、盟神探湯くがたちにより証明すべきである」
と言われた。

そこで甘橿丘あまかしのおか辞禍戸崎ことのまがえのさき言葉の偽りを明らかにし正す場所)に、盟神探湯くがたちの釜を据えて、諸人もろひと一般人)を行かせて、
「真実であるものは損われないが、偽りのものは必ず損傷を受けるだろう」
と告げられた。
諸人は、各々に神聖な木綿櫸ゆうたすきをかけて、熱湯の釜に赴き探湯たちをした。
真実である者は何事もなく、偽っていた者は皆傷ついた。
そこで故意に欺いていた者は、怖じ退いて進むことができなかった。
これ以後、氏姓は自ら定まって偽る者はなくなった。

殯の玉田宿禰

五年秋七月十四日、地震があった。
その後、葛城襲津彦カズラキノソツヒコの孫である玉田宿禰タマタノスクネに命ぜられて、 反正天皇のもがり埋葬するまでの間、遺骸を安置すること)を任じられた。
地震のあった夜、尾張連吾襲おわりのむらじアソを遣わして、殯宮もがりのみやの様子を見せた。
人々は欠けることなく集まっていたが、 玉田宿禰タマタノスクネだけがいなかった。
吾襲アソはそのことを報告した。
吾襲アソをまた葛城に遣わして、玉田宿禰タマタノスクネを見せた。
宿禰スクネはちようど男女を集めて酒宴をしていた。
吾襲アソは事の次第を宿禰スクネに告げた。
宿禰スクネは問題になることを恐れて、馬一匹を贈ってまいない(賄賂)とし、途中に待ちうけて吾襲アソを殺した。
そして、武内宿禰タケノウチノスクネの墓地の内に逃げて隠れた。

天皇はこれをお聞きになり玉田宿禰タマタノスクネを召された。
宿禰スクネは用心して甲を衣の下に著けて参上した。
衣の中から甲の端が見えた。
天皇はその状を明らかにしようと、小墾田采女オハリダノウネメに命じて、宿禰スクネに酒を賜わった。
采女ウネメは、はっきりと衣の下に甲のあることを見て、天皇に申し上げた。
天皇は兵に討たせようとされたが、宿禰スクネはこっそり逃げて家に隠れた。
天皇はさらに追われて、玉田タマタの家を囲んで、捕え殺させられた。

冬十一月十一日、反正天皇を耳原陵みみはらのみささぎ百舌鳥耳原南陵)に葬った。

衣通郎姫

七年冬十二月一日、新居の落成祝いの宴会があった。
天皇は自ら琴を弾かれ、皇后は立って舞われた。
舞いが終ったが、皇后は礼事を何も言われなかった。
当時の風俗では、宴会の時、舞う人は舞い終ると、その座の長に向って、
「娘子を奉りましよう」
と言うことになっていた。
そこで天皇は皇后に、
「何故、常の礼をしないのか」
と言われた。
皇后は畏まって、また立って舞われ、終ってから、
「娘子を奉りましよう」
と言われた。

天皇は皇后に問われた。
「奉る娘子は誰か。名前を知りたいと思う」
皇后は止むを得ず、
「私の妹、名は弟姫オトヒメです」
と言われた。
弟姫オトヒメは容姿絶妙で並ぶ者がなかった。
麗しい体の輝きは、衣を通して外に現れていた。
当時の人は、それを衣通郎姫ソトオシノイラツメと言った。

天皇の心は衣通郎姫ソトオシノイラツメに傾いていた。
そこで、皇后に奉ることを強いられた。
皇后は気が進まれなかった。
天皇は翌日使者を遣わし弟姫オトヒメを呼ばれた。
そのとき、弟姫は母に従って近江おうみの坂田にいた。

弟姫オトヒメは皇后の心を察して参上しなかった。
また、重ねて七回もお召しになったが、固く辞退して参られなかった。
天皇は心喜ばれず、舎人とねり中臣烏賊津使主なかとみのイカツノオミみことのりして、
「皇后の奉る娘子の弟姫オトヒメが呼んでも来ない。お前は出向いて弟姫を連れてきなさい。必ず敦く報いをしよう」
と言われた。
烏賊津使主イカツノオミは、命令を承って出かけた。
ほしいを衣に包んで坂田に行った。

そして、弟姫オトヒメの庭に伏して、
「天皇がお召しになっておられます」
と言った。
弟姫オトヒメは答えて、
「どうして天皇のお言葉を畏く思わないことがありましようか。ただ、皇后のお心を傷つけたくないと思うのです。私は死んでも参ることはできません」
と言われた。
烏賊津使主イカツノオミは、
「私は天皇の命を承り、必ずお連れ申せ、もし連れてこなかったら、極刑にすると言われました。ですから帰って処刑されるより、庭に伏して死ぬばかりです」
と言った。
そして七日に至るまで庭に伏していた。
食物を与えられても執らず、密かに懐中の糒を食した。

そこで弟姫オトヒメが思うに、私は皇后の嫉妬を恐れて、天皇の命を拒んだ。
そして、君の忠臣を失うことになれば、これまた私の罪となると思い、ついに烏賊津使主イカツノオミに従ってやってきた。
やまと春日かすがに着いて、櫟井いちいいの傍で乾飯かれいいを食べた。
弟姫オトヒメは酒を使主オミに与え慰めた。
使主オミはその日、京に至り、弟姫オトヒメ倭直吾子籠やまとのあたいアゴコの家に留めて、天皇に復命した。
天皇は大いに喜ばれ、使主オミを褒めて敦く遇された。
しかし、皇后の心は穏やかではなかった。
それで宮中に近づけないで、別に殿舍を藤原に建てて居らしめられた。

大泊瀬天皇オオハツセノスメラミコト雄略天皇ゆうりゃくてんのう)を出産された時、天皇は初めて藤原にお出でになった。
皇后はそれを聞かれて恨んで、
「私は初めて髪上げをして以来、後宮に侍ること多年になります。今、私は出産で生死の境にあるのに、どうして天皇は藤原にお出でになったりするのですか」
とおっしゃって、産殿うぶどのを焼いて自殺しようとされた。
天皇は大いに驚いて、
「私が悪かった」
と謝られ、皇后の心を慰め機嫌をとられた。

八年春二月、藤原にお出でになった。
こっそりと衣通郎姫ソトオシノイラツメのご様子を伺われた。
独居の姫は天皇を偲んで、お越しになっていることを知らず歌を詠まれた。

ワガセコガ、クべキヨヒナリ、ササガニノ、クモノオコナヒ、コヨヒシルシモ。

夫の君が訪れてくれそうな宵である。巣を営む蜘蛛の行動が、今宵はせわしく目につきます。

天皇はこの歌をご覧になって感動され、歌を詠まれた。

ササラガタ、ニシキノヒモラ、卜キサケテ、アマ夕ハネズニ、タダヒトヨノミ。

さあ、錦の腰紐を解いて、幾夜もとは言わず、ただ一夜だけ共寝をしよう。

翌朝、天皇は井戸のそばの桜の花をご覧になって、歌を詠まれた。

ハナグハシ、サクラノメデ、コトメデバ、ハヤクハメデズ、ワガメヅルコラ。

細かく美しい桜の花の見事さよ。同じ愛するなら、もっと早く愛すべきだった。早く賞美しないで惜しいことをした。わが愛する姫よ。

それを皇后はお聞きになって、また大いに恨まれた。
衣通郎姫ソトオシノイラツメは、
「私は王宮おおみやに近づいて、昼夜とも陛下のお姿を見たいと思います。けれども、皇后は我が姉です。私のせいで常に陛下を恨んでおられ、また苦しんでおられます。それで王宮を遠く離れて、どこかに住みたいと思います。皇后のお心も少しは休まるのでないでしょうか」
と言われた。
天皇は直ちに河内かわち茅淳ちぬ宮室おおみやを建てて、衣通郎姫ソトオシノイラツメを住まわせた。
これによって、しばしば日根野(大阪府日根野)に遊猟にお出でになるようになった。

九年春二月、茅淳宮ちぬのみやにお出でになった。

秋八月、茅淳ちぬにお出でになった。

冬十月、茅淳ちぬにお出でになった。

十年春一月、茅淳ちぬにお出でになった。
そこで皇后は、
「私は少しも弟姫オトヒメを嫉む気はありません。けれども、陛下がしばしば茅淳ちぬにお出でになることを恐れます。それは百姓の苦しみになると思いますから。願わくば、お出ましの数を減らして頂きとうございます」
と申し上げられた。
これ以後は、稀にお出でになるようになった。

十一年春三月四日、茅淳宮ちぬのみやにお出でになった。
衣通郎姫ソトオシノイラツメは歌を詠まれた。

卜コシへニ、キミモアへヤモ、イサナトリ、ウミノハマモノ、ヨルトキ卜キヲ。

いつも変らずあなたにお会いできるのではありません。海の浜藻はまもが波のまにまに、岸辺に近寄り漂うように、稀にしかお逢いできません。

天皇は衣通郎姫ソトオシノイラツメに語った。
「この歌を他人に聞かせないように、皇后が聞かれたらきっと大いに恨まれるから」
それで当時の人は、浜藻はまもを名づけて、「なのりそ藻(人に告げるな)」といった。

その後、衣通郎姫ソトオシノイラツメ藤原宫ふじわらのみやにお出でになったとき、天皇は大伴室屋連オオトモノムロヤノムラジみことのりして、
「私はこの頃、美人の嬢女おみなを得た。皇后の妹である。特別に可愛いと思う。どうかその名を後世に残したいと思うが、どうだろう」
と言われた。
室屋連ムロヤノムラジみことのりに従って奏上したことをお許しになった。
すなわち、諸国のみやつこに仰せられて、衣通郎姫ソトオシノイラツメのために藤原部ふじわらべ屯倉の部民)を定められた。

阿波の大真珠

十四年秋九月十二日、天皇は淡路島へ猟にお出でになった。
そのとき、大鹿、猿、猪などが沢山に山谷に入り乱れており、炎のように、また蠅のようであったが、一日中一匹の獲物も得られなかった。
狩りをやめて占いをされると、島の神が祟って言われるのに、
「獣が捕れないのは、私の心によるのだ。明石の海の底に真珠がある。その珠を私に供えて祀れぱ、獲物は全て得られよう」

そこで方々の海人あまを集めて、明石の海の底に潜らせた。
海が深くて底に着くことができなかった。
男狭磯オキシという一人の海人あまがあった。
阿波国あわのくに長邑ながむらの人である。
多くの海人のなかでも優れていた。

腰に縄をつけて海底にはいった。
しばらくして出てきて、
「海の底に大きなアワビがいます。そこは光っています」
という。
衆人が言うのに、
「島の神が欲しておられる珠は、きっとそのアワビの腹にあるのだろう」

また、潜って探った。
男狭磯オキシは大アワビを抱いて浮き上った。
そして、息絶えて海上で死んだ。
縄を下ろして海の深さを測ると、六十ひろ約110m:一尋は両手を左右に広げた幅)あった。

アワビを割いた。
本当に真珠が腹の中にあった。
その大きさは桃の実ほどであった。
そこで真珠を供え、島の神のお祀りをして猟をされた。
すると、沢山の獲物が捕れた。
ただ、男狭磯オキシが海に入って死んでしまったことを悲しんで、墓を作り、厚く葬られた。
その墓は現在も残っている。

二十三年春三月七日、木梨軽皇子キナシカルノミコを立てて太子とされた。
容姿麗しく、見る人は自ら感動した。
同母妹の軽大娘皇女カルノオオイラツメノヒメミコもまた、妙艷であった。
太子はいつも、大娘皇女オオイラツメノヒメミコと一緒になろうと思っておられた。
しかし、それが罪になることを恐れて黙っていた。
しかし、愛しい心は燃え上って死なんばかりであった。

そこで思われるのに、徒らに空しく死ぬよりは、たとえ処刑されても、我慢することはできぬと。
ついにこっそり相通じられた。
鬱積した思いが少しは静められた。
そこで歌を詠まれた。

アシヒキノ、ヤマタヲツクリ、ヤマタ力ミ、シタヒヲワシセ、シタナキニ、ワガナクツマ、カタナキニ、ワガナクツマ、コゾコソ、ヤスクハダフレ。

山田を作り山が高いので、下樋を通して水を引く、そのように下泣き(こっそり泣く)私が恋い泣く妻よ。ひとり泣きに私が恋い泣く妻よ。今宵こそはこだわりなく肌を触れ合おう。

二十四年夏六月、帝の御膳のあつものの汁が凍ることがあった。
天皇は怪しまれて、その原因を占わされた。
卜者が、
「内の乱れがあります。思うに、同母の兄妹の相姦があるのではないでしょうか」
と言った。
時に、ある人が、
木梨軽太子キナシカルノミコと同母妹の軽大娘皇女カルノオオイラツメヒメミコが通じておられます」
と言った。
よって調べられると、言葉通りであった。
太子は天皇の世継ぎとなる人である。
処刑が難しいので、大娘皇女オオイラツメノヒメミコ伊予いよに移された。
そのとき太子が歌を詠まれた。

オホキミヲ、シマニハフリ、フナアマリ、イカへリコムソ、ワガタタミユメ、コ卜ヲコソ、タタミ卜イハメ、ワガツマヲユメ。

大君を島に放逐しても、船に人数が多すぎて、乗れずに、きっと帰ってくるだろうから、畳を潔斎して待っていなさい。いや、言葉では畳というが、実は我が妻よ、潔斎して待っていなさい。

さらに歌を詠まれた。

アマタム、カルヲトメ、イタナケバ、ヒ卜シリヌべミ、ハサノヤマノ、ハ卜ノ、シタナキニナク。

軽嬢子かるおとめよ。ひどく泣いたら、人が気づくだろうから、私は幡舎はきの山の鳩のように、低い声で忍び泣きをする。

四十二年春一月十四日、天皇が亡くなられた。
年は若干であった。
七十八歳とされる。

新羅しらぎの王は、天皇が亡くなられたと聞いて、驚き悲しんで沢山の調の船に、多数の楽人を乗せて奉った。
この船は対馬に泊って、大いに悲しみ泣いた。
筑紫に着いてまた大いに泣いた。
難波津なにわづに泊って、皆、麻の白服を着た。
いろいろな楽器を備え、沢山の調を捧げ、難波なにわから京に至るまで、泣いたり舞ったりした。
そして殯宮もがりのみやに参会した。

冬十一月、新羅しらぎの弔使らは、喪礼を終って還った。
新羅の人は、京のほとりの耳成山みみなしやま畝傍山うねびやまを愛した。
琴引坂ことびきのさかに着いた時、振り返って、
「うねめはや、みみはや」
と言った。
これは、この国の言葉に馴れず、畝傍山うねびやまを訛って「うねめ」と言い、耳成山みみなしやまを訛って「みみ」と言ったのである。
このとき、やまと飼部うまかいべが新羅の人に従っていて、この言葉を聞いて、新羅人しらぎびと采女うねめと通じたのだろうと疑って考えた。

帰ってそれを大泊瀬皇子オオハツセノミコに申し上げた。
皇子は新羅しらぎの使者を捕えて調べられた。
新羅の使者は、
采女うねめを犯すようなことはありません。ただ、京のほとりの二つの山を愛でて言っただけです」
と言った。
間違っていたことが分って皆許された。
しかし、新羅人しらぎびとは大いに恨み、貢の品物や船の数を減らした。

冬十月十日、天皇を河内かわち長野原陵ながののはらのみささぎに葬った。

惠我長野北陵
Saigen Jiro [CC0], via Wikimedia Commons

安康天皇 穴穂天皇

木梨軽皇子の死

穴穂天皇アナホノスメラミコト允恭天皇いんぎょうてんのうの第二子である。
一説では第三子とも言われる。
母は稚淳毛二岐皇子ワカヌケフタマタノミコの娘である忍坂大中姫命オシサカノオオナカヒメノミコトという。
四十二年春一月に天皇が崩御された。

冬十月に葬礼が終った。
このときに、太子である木梨軽皇子キナシカルノミコが、婦女に暴行をして淫乱であったので(太子が同母妹の軽大娘皇女を犯した)、国人たちは太子を謗った。
群臣くんしんが心服しなくなり、全ての人が穴穂皇子アナホノミコについた。
そこで軽太子カルノタイシ穴穂皇子アナホノミコを襲おうとして、こっそりと兵士を用意させた。

穴穂皇子アナホノミコも同じように兵を集めて、戦おうとされた。
そこで穴穂矢あなほや銅製のヤジリ)や軽矢かるや鉄製のヤジリ)がこのとき初めて作られた。
そのとき、軽太子カルノタイシ群臣くんしんが自分に従わず、人民たちもまた離反していくことを知って、宫を出て物部大前宿禰モノノベノオオマエノスクネの家に身を潜められた。
穴穂皇子アナホノミコはそれを聞いて、宿禰スクネの家を兵士に取り囲まされた。
大前宿禰オオマエノスクネは門に出てきて、穴穂皇子アナホノミコをお迎えした。
穴穂皇子アナホノミコは歌を詠んで言われた。

オホマへ、ヲマヘスクネガ、カナトカゲ、カクタチヨラネ、アメタチヤメム。

大前オオマエ小前オマエ宿禰スクネの家の、金門かなとの蔭に、このようにみんな立寄りなさい。雨宿りをして行こう。

大前宿禰オオマエノスクネは返歌をした。

ミヤヒ卜ノ、アユヒノコスズ、オチニキ卜、ミヤヒ卜卜ヨム、サトヒトモユメ。

宮廷にお仕えする人の、足結につける小鈴が落ちたと、人々がどよめいている。不吉なことです。里に下っている人たちも気をつけなさい。

そして皇子に申し上げた。
「どうか軽太子を殺さないで下さい。手前が何とかお図り申し上げましよう」

こうして軽太子カルノタイシは、大前宿禰オオマエノスクネの家で自殺をされた。
一説には伊予国いよのくにに流したとされる。

大草香皇子の災厄

十二月十四日、穴穂皇子アナホノミコは天皇の位につかれた。
前の皇后を敬って皇太后と申し上げた。
そして都を大和やまと石上いそのかみに移された。
これを穴穂宮あなほのみやという。

ちょうどこの頃、大泊瀬皇子オオハツセノミコ(雄略天皇)は、反正天皇の娘たちを我が物にしようとされた。
このとき、娘たちは皆、
「あの方は日頃から乱暴で恐いお方です。突然ご機嫌が悪くなると、朝にお目にかかった者でも、夕方には殺され、夕方にお目にかかった者でも翌朝には殺されています。私たちは容色が美しくなく、また、気も利かぬ者です。もし振舞いや言葉が、毛の末ほどでも王の心に適わなかったら、どうして可愛がって頂けましょうか。そんなわけですから、仰せごとを承ることはできないのです」
と言って、ついに身を隠して聞き入れられなかった。

元年春二月一日、天皇は大泊瀬皇子オオハツセノミコのために、大草香皇子オオクサカノミコの妹である幡梭皇女ハタビノヒメミコを娶とりたいと思われた。
そして、坂本臣さかもとのおみの先祖の根使主ネノオミを遣わして、大草香皇子オオクサカノミコにお頼みされて、
「どうか、幡梭皇女ハタビノヒメミコを頂いて、大泊瀬皇子オオハツセノミコと一緒にさせてくれないか」
と言われた。
このとき、大草香皇子オオクサカノミコが答えたのは、
「私はこの頃重い病に罹りまして、治ることは難しいようです。 たとえて言えば、荷物を船に沢山積んで、満ち潮を待っているようなものでして、最後を待つばかりです。けれども、死ぬのは寿命というものです。どうして惜しむに足りましょうか。ただ、妹の幡梭皇女ハタビノヒメミコが孤児になるので、心易く死ぬことができぬのです。今、陛下がこの女の醜いことをお嫌いにならなくて、宮廷の女性の仲間に入れて下さろうという、これは大変に有難い恩恵でございます。どうして辱けない仰せ言をご辞退致しましょうか。それで真心をお示しするため、家宝としていた押木珠縵おしきのたまかずら(一名を立縵たちかずら、または磐木縵いわきのかずらとも呼ぶ)を捧げて、お使いの根使主ネノオミに預けて奉ります。どうか、つまらぬもので軽々しいですけれども、お納めいただき、よしみの印として下さい」
とおっしゃった。

根使主ネノオミ押木珠縵おしきのたまかずらを見て、その見事さに心動かされ、嘘を言って自分の宝にしてしまいたいと考えた。
そして、天皇に偽って申し上げた。
大草香皇子オオクサカノミコ勅命ちょくめいに従わないで、 私に『一体、同族であるといっても、どうして私の妹を差し出すことができましょうか』と言っています」
と述べた。

すっかりかずらを自分のところの物にしてしまい、献上しなかった。
天皇は根使主ネノオミの偽り言を信じてしまわれた。
大いに怒って兵らを遣わして、大草香皇子オオクサカノミコの家を取り囲み、攻め殺した。

このとき、難波吉師日香蚊ナニワノキシヒカカの親子は、共に大草香皇子オオクサカノミコに仕えていた。
仕えた主人が罪なく殺されてしまったことを悲しんで、父は皇子の御首を抱き、二人の子はそれぞれ皇子の御足を抱えて、泣き悲しんだ。
「我が君の罪なくして死なれ給うことの悲しさ。我ら親子三人、君の生前にお仕え申し上げ、非業の最期のお供を申し上げなかったら、これは家来とは申せません」
と言い、ためらわず自ら首をはねて、みかばねの傍に身を伏せた。

兵たちはみな悲しみの涙にむせんだ。
ここで大草香皇子オオクサカノミコの妻である中蒂姫ナカシヒメをお召しになって、宮中に入れられ、そして妃とされた。
また、ついに幡梭皇女ハタビノヒメミコを召して、大泊瀬皇子オオハツセノミコに娶合わせた。
この年、大歳甲午さいたいきのえうま

二年春一月十七日、中蒂姫命ナカシヒメノミコトを立てて皇后とされた。
ひどく寵愛された。
はじめ中蒂姫ナカシヒメは、大草香皇子オオクサカノミコとの間に眉輪王マヨワノオオキミをお生みになっている。
眉輪王マヨワノオオキミは母の縁で、父の罪を許されたことになり、常に宮中で育てられた。

三年秋八月九日、安康天皇あんこうてんのう眉輪王マヨワノオオキミにより殺される。
これについては雄略天皇ゆうりゃくてんのうの条に詳しく述べた。

三年の後、菅原伏見陵すがはらのふしみのみささぎにお祀り申し上げた。

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菅原伏見西陵
Saigen Jiro [CC0], via Wikimedia Commons

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