仲哀天皇
后妃と御子
帯中日子天皇は、穴門の豊浦宮、および筑紫の香椎宮で天下を治めた。
この天皇が、大江王の大中津比売命を妻としてお生みになった御子は、香坂王と忍熊王の二柱である。
また息長帯比売命(この方は皇后である)を妻としてお生みになった御子は、品夜和気命と大鞆和気命、またの名を品陀和気命の二柱である。
この皇太子の名前に大鞆和気と名づけたわけは、初めお生まれになった時に、鞆のような形の肉が腕にできていた。
それで、そのお名前にしたのである。
こういうわけで、皇后の胎中におられたときから、征韓に携わり、国を治めていたことがわかる。
この天皇の御世に、淡路島の屯倉を定めた。
神功皇后の神がかりと神託
仲哀天皇の皇后である息長帯比売は、天皇の筑紫巡幸の折に神がかりになられた。
それは、天皇が筑紫の香椎宮にいた際、熊襲国を討とうとした時のことで、天皇が琴をお弾きになり、武内宿禰の大臣が神おろしの場所にいて、神託を乞い求めた。
すると皇后が神がかりして、神託をして言った。
「西の方に国がある。その国には、金や銀をはじめとして、目のくらむようないろいろの珍しい宝物がたくさんある。私は今、その国を服属させてあげようと思う」
ところが天皇がこれに答えて言う。
「高い所に登って西の方を見ると、国土は見えないで、ただ大海があるだけだ」
そして偽りを言う神だとお思いになって、お琴を押しやってお弾きにならず、黙っておられた。
するとその神がひどく怒って言う。
「そもそもこの天下は、そなたが統治すべき国ではない。そなたは黄泉国への一道に向かいなさい」
そこで武内宿禰の大臣が、
「畏れ多いことです。我が天皇様よ、やはりそのお琴をお弾きなさいませ」
と言った。
そこで天皇がその琴を引き寄せて、しぶしぶお弾きになっていた。
ところがまもなくお琴の音が聞こえなくなった。
すぐに火を灯して見ると、天皇は既にお亡くなりになっていた。
そこで驚き恐れて、御遺体を殯宮にお移し申し上げ、また国中から大祓のための幣帛を集めて、生剝、逆剝、畔離、溝埋、屎戸、上通下通婚、馬婚、牛婚、鶏婚、犬婚など罪の類をいろいろ求めて、国家的な大祓の儀礼を行ない、また武内宿禰が神おろしの場所にいて神託を求めた。
そこで神が教え諭したことは、すべて先日の神託と同じで、
「全てこの国は、皇后様のお腹におられる御子が統治されるべき国である」
というものであった。
そこで武内宿禰は、
「恐れいりました。我が大神様よ、その皇后様のお腹におられる御子は、男子、女子のどちらの御子でしょうか」
と申し上げたところ、
「男子である」
と神が答えた。
そこでくわしく神託を乞うて、
「今、このようにお言葉でお教えくださる大神は、そのお名前を伺いたく存じます」
と申し上げると、すぐに答えて、
「これは天照大御神の御心によるのだ。また底筒男、中筒男、上筒男の三柱の大神であるぞ。この時にその三柱の大神のみ名は顕われたのである。今、まことに西の国を求めようとお思いならば、天つ神、国つ神や、また山の神と河海のもろもろの神々に、ことごとく幣を奉り、私の神霊を船の上にお祭りして、真木を焼いた灰を瓠(ひょうたん)に入れ、また箸と葉盤をたくさん作り、それらをすべて大海に散らし浮かべて、お渡りになるがよい」
と言った。
神功皇后の新羅遠征
そこで皇后は、すべて神が教えたとおりにして、軍勢を整え船を並べて海を渡って行かれたとき、海原の魚はその大小を問わずことごとく船を背負って渡った。
そのとき追い風が盛んに吹いて、船は波に従って進んでいった。
そしてその船の立てる波は、新羅の国に押し上がって、既に国の半分にまで達した。
そこで新羅の国王が畏れをなして言うには、
「今後は天皇の御命令のとおりに従い、御馬飼となって、毎年船を並べて、船の腹を乾かすことなく、棹や楫を乾かすことなく、天地の続く限り怠ることなく、貢ぎ物を奉ってお仕え申しましょう」
と述べた。
こういうわけで、新羅国は馬飼とお定めになり、百済国は海を渡った地の屯倉と定めた。
そこで皇后は御杖を新羅の国王の家の門に突き立て、そして住吉三神の荒御魂を、国をお守りになる守護神として鎮め祭って、海を渡ってお還りになった。
新羅征討の政務がまだ終わっていないうちに、皇后の身籠っておられる御子が生まれになりそうになった。
そこで皇后は、お腹を鎮めようとして、石を取って裳の腰に付けて出産を抑え、筑紫国に還られてから、その御子は生まれた。
それで、その御子が生まれた地を名づけて宇美という。
またその裳に付けた石は、筑紫国の伊斗村にある。
また、筑紫の松浦県の玉島里に現れて、玉島川のほとりで食事をとったとき、四月の上旬のころであった。
そこで皇后は、その川の中の岩の上にお立ちになって、裳の糸を抜き取り、飯粒を餌にしてその川の鮎をお釣りになった。
その川の名を小河という。
またその岩の名を勝門比売という。
それで、四月上旬のころ、女の人が裳の糸を抜き、飯粒を餌として鮎を釣ることが、今日に至るまで絶えず行なわれているのである。
忍熊王の反逆
そこで息長帯比売(神功皇后)が大和に還り上られる時、反逆の心を抱いているのではないかと、人々の心が疑わしかったので、棺を載せる船を一艘用意して、御子をその喪船にお乗せして、まず、
「御子は既にお亡くなりになった」
と、そっと言いもらした。
こうして大和へ上って来られる時、香坂と忍熊はこれを聞いて、皇后を待ち受けて討ち取ろうと思って、斗賀野に進出して事の成否を占うための誓約狩をした。
そこで香坂が櫟に登っていると、そこに大きな怒り狂った猪が現われて、その櫟を掘って倒し、たちまち香坂を食い殺した。
その弟の忍熊は、その凶兆を恐れることなく、軍勢を起こして皇后を待ち受け迎えたが、そのとき喪船に向かってその空船を攻めようとした。
そこで皇后は、その喪船から軍勢を降ろして相戦った。
このとき忍熊は、難波の吉師部の祖先の伊佐比宿禰を将軍とし、皇太子の方では、丸邇臣の祖先の難波波根子建振熊命を将軍とした。
そして追い退けて山城に至った時、忍熊の軍は立ち直って、双方退くことなく相戦った。
このとき、建振熊は計略をめぐらし、
「息長帯日売はすでにお隠れになってしまったから、このうえ戦わねばならぬことはない」
と言い触らさせて、ただちに弓の弦を切って、偽って降服した。
そこで敵の将軍はすっかりその偽りを信じて、弓の弦を外し武器を収めた。
そこで髻の中から用意してあった弦を取り出して、また弓に張って追撃した。
それで逢坂まで逃げ退いて、ここで双方向かい立ってまた戦った。
そして敵に追い迫ってうち破り、楽浪に出て、ことごとくその軍勢を斬り伏せた。
このとき忍熊は、伊佐比宿禰とともに追いつめられて、船に乗り湖上に浮かんで歌った。
さあ、君よ、
振熊のために痛手を負うよりは、
(鳰鳥の)近江の海に潜って死んでしまおうよ。(三九)
そして、ただちに湖に身を投じてともに死んでしまった。
気比大神
そこで武内宿禰は、その皇太子を連れて禊をしようとして、近江および若狭国を巡歴した時、越前国の敦賀に仮宮を造って、そこに住ませた。
ところがそこにおられる伊奢沙和気大神命が、夜の夢に現われて、
「私の名を御子の御名に変えたいと思う」
と言った。
そこでその神を祝福して申すには、
「恐れ入りました。仰せのとおりに、御名をいただいて名を変え申しましょう」
と述べた。
するとまたその神が言うには、
「明日の朝、浜にお出かけなさいませ。名を変えた瑞の贈物を差し上げましょう」
そしてその翌朝、皇太子が浜に出たところ、鼻の傷ついた海豚が、浦いっぱいに寄り集まっていた。
これを見て御子が神に申し上げして、
「神が私に食料の魚を下さった」
と仰せになった。それでまたその神の御名をたたえて御食つ大神と名づけた。
それで現在は気比大神というのである。
またその傷ついた海豚の鼻の血が臭かったので、その浦を名づけて血浦といったが、現在は角鹿と呼んでいる。
酒楽の歌
御子が都に帰って来たとき、その母君の息長帯日売は、御子を祝福して待酒を造って、御子に奉られた。
その時、その母君は歌でこう述べた。
この、御酒は、私が醸したものではありません。
この御酒は、酒の支配者である、
常世の国に居られる、
石神として立っておられる少名毘古那が、
祝福して狂い踊り、踊り回って釀して献ってきた御酒です。
すっかり飲みほしてください。さあさあ。(四〇)
このように歌って、太子に大御酒を献られた。そこで武内宿禰が、皇太子に代わって答えて歌っていうには、
この御酒を釀した人は、
その鼓を臼のように立てて、
そのまわりを歌いながら釀したからであろうか、
踊りながら釀したからであろうか、
この御酒は、
この御酒は、
なんともいえず、
たいそう味がよくて楽しい。
さあさあ。(四一)
この二首は酒楽の歌である。
およそ仲哀天皇の年齢は五十二歳。
壬把の年の六月十一日に崩御になった。
御陵は河内国の恵賀の長江にある。
皇后は百歳でお亡くなりになった。
そして狭城の楯列陵に葬り申し上げた。
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