卑弥呼とは何者か?

邪馬台国
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  1. 卑弥呼の概要
    1. 卑弥呼の生没年
  2. ヒミコ(卑弥呼)の発音と意味
  3. 卑弥呼の年譜
    1. 146年〜189年頃:倭国大乱
    2. 173年:倭の女王・卑弥呼が新羅に使者を派遣
    3. 時期不明:卑弥呼による統治の経緯
    4. 189年頃:卑弥呼による統治
    5. 193年:倭人が飢え、食を求めて1000人が新羅(朝鮮)へ渡る
    6. 208年:倭軍が新羅(朝鮮)を攻める
    7. 232年:倭軍が新羅(朝鮮)に侵入し、その王都・金城を包囲
    8. 233年:倭軍が新羅の東方から攻め入った
    9. 景初二年(239年)12月:卑弥呼、初めて難升米らを魏に派遣
    10. 正始元年(240年):帯方郡から魏の使者が倭国を訪れる
    11. 正始四年(243年)12月:倭王は大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を復遣使として魏に派遣
    12. 正始六年(245年):難升米に黄幢を授与
    13. 正始八年(247年):倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣
    14. 時期不明:卑弥呼死亡
    15. 249年:倭国使臣が新羅(朝鮮)の昔于老を暗殺
    16. 266年:倭(邪馬台国)からの最後の使者
    17. 287年:倭軍が新羅(朝鮮)に攻め入る
  4. 卑弥呼の墓
    1. 卑弥呼の墓の形状
      1. 邪馬台国畿内説の奈良県桜井市の箸墓古墳を卑弥呼の墓なのか?
      2. 邪馬台国九州説の福岡県苅田町・石塚山古墳は卑弥呼の墓なのか?
      3. 邪馬台国九州説の福岡県糸島市・平原遺跡は卑弥呼の墓なのか?
      4. 邪馬台国九州説の福岡県久留米市・祇園山古墳は卑弥呼の墓なのか?
  5. 卑弥呼は誰なのか?
    1. 天照大神(アマテラス)
    2. 倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)
    3. 神功皇后
    4. 熊襲の女酋長
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卑弥呼の概要

「魏志倭人伝」によれば、卑弥呼は邪馬台国(または、女王之所都)に住んでいたとされる倭国の女王。
「鬼道で衆(人々)を惑わした」という記述から、占いやマジナイを行う巫女(シャーマン)であった可能性が高いとされる。

卑弥呼の生没年

出生年:不明
没年:242年〜248年頃

魏志倭人伝では、卑弥呼の死に関し以下の様に記述されている。

原文:倭女王卑弥呼与狗奴国王卑弥弓呼素不和 遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状 遣塞曹掾史張政等因齎詔書黄幢 拝仮難升米為檄告諭之 卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 殉葬者奴婢百餘人

日本語訳:倭の女王・卑弥呼と狗奴国の男王・卑弥弓呼(ひみくこ)は、平素から不仲であった。それゆえ、倭国は載斯烏越(さしあえ) らを帯方郡に派遣して狗奴国との戦闘状況を報告させた。これに対し(魏の朝廷は)塞曹掾史の張政らを派遣した。邪馬台国に赴いた張政らは証書と黄幢を難升米(なしめ)に授け、檄文を作って諭した。卑弥呼が死んだので大いに冢を作った。径は100余歩である、殉葬された奴婢は100余人である。

この記述は、247年に邪馬台国からの使いが狗奴国との紛争を報告したことに発する一連の記述である。
卑弥呼の死については年の記載はなく、その後も年の記載がないまま、1年に起こったとは考えにくい量の記述があるため、複数年にわたる記述である可能性が高いが、卑弥呼の死が247年か248年か(あるいはさらに後か)については説が分かれている。
また247年の記述は、240年に梯儁が来てから以降の倭の出来事を伝えたものとすれば、卑弥呼の死も240年から246年ごろに起きた可能性が高い。

ヒミコ(卑弥呼)の発音と意味

卑弥呼の表記は、
*卑彌呼(三国志・魏志、後漢書、隋書など)
*俾彌呼(三国志・魏書帝紀)
*卑弥呼(日本語)
となっているが、その発音は日本語で「ヒミコ」と呼ばれている。
この発音が正しいかどうかは不明だが、いずれの文字も当時の音を漢字に当てはめたものだと解釈されている。

「ヒミコ」という言葉の持つ意味については、以下の解釈がされている。

  • ひみこ(日巫女、日御子) – 「日巫女」は太陽に仕える巫女の意。「日御子」は太陽神の御子の意。
  • ひめこ(日女子、姫子) – 駒澤大学教授の三木太郎の説。男性の敬称「ヒコ(日子)」に対する女性の敬称。
  • ひめこ(比咩子、比売子) – 古事記における音読み表現。
  • ひめみこ(日女御子、姫御子)
  • ひみか・ひむか(日向) – 松本清張が唱えた、日向(日向国)と関係するとの説。
  • ひみか・ひむか(日向) – 原田大六、古田武彦が唱えた、糸島の平原遺跡と福岡の奴の国を結ぶ日向峠に由来するとの説。
  • ひみか(日甕) – 古田武彦が唱えた、筑後風土記に登場する女性・甕依姫に該当するという説。聖なる甕という意。
  • ぴやこ、みやこ(宮居) – 1937年に藤井尚治が「国史異論奇説新学説考」の中で唱えた説。中国の学者が、「宮居」を人名と誤解したとし、卑弥弓呼は「ミヤツコ(宮仕)」に、卑狗が「ミコ(皇子)」になるとする。
  • ひむか・ぴむか – 長田夏樹『新稿 邪馬台国の言語 ―弥生語復元―』学生社 2010年。3世紀の洛陽音の復元による。

いずれも「ひ(日・太陽)」との関連性を強く持つ解釈になる。

一方、中国語発音を考慮する(呼にコという発音はない)と、当時の中国が異民族の音を記す時、「呼」は「wo」をあらわす例があり(匈奴語の記述例など)、卑弥呼は「ピミウォ」だったのではないかとする説もある。

卑弥呼の年譜

卑弥呼の影響下にあった倭国(邪馬台国)の年譜を、中国の歴史書「三国志」「後漢書」「普書」「三国志記・新羅本紀」「三国志記・于老列伝」からリスト化した。

146年〜189年頃:倭国大乱

倭国が大いに乱れたとの記述あり。
(後漢書より)(隋書にも同様の記述あり)

173年:倭の女王・卑弥呼が新羅に使者を派遣

実際は年号の読みから、233年のことであるとの説が有力。
(三国志記・新羅本紀より)

時期不明:卑弥呼による統治の経緯

倭国で男性の王の時代が続いた(70〜80年間)が、その後に内乱があり(5〜6年間)、その後で一人の女子を立てて王とした(卑弥呼・即位)。
その女子の名を卑彌呼といい、鬼道に仕え、よく衆を惑わす。年齢は既に高齢で夫はないが、弟がいて国の統治を補佐したとの記述がある。
(魏志倭人伝より)

なお、中国歴史書「梁書」では、「光和年間(178年〜184年)」まで倭国内乱があり、卑弥呼による統治が始まったとしている。

189年頃:卑弥呼による統治

倭国に一人の女子がいて、名を卑彌呼という。
年増だが嫁がず、神鬼道に仕え、よく妖術を以て大衆を惑わす。
(後漢書より)

193年:倭人が飢え、食を求めて1000人が新羅(朝鮮)へ渡る

192年から194年にかけて、新羅・高句麗・中国で異常気象や飢饉の記録があるので、この頃東アジア一帯が小氷期に見舞われていたとして、倭人の飢饉もその一環とする説がある。
(三国志記・新羅本紀より)

208年:倭軍が新羅(朝鮮)を攻める

倭軍が新羅を略奪。新羅は伊伐飡の昔利音を派遣して防いだ。
(三国志・新羅本紀より)

232年:倭軍が新羅(朝鮮)に侵入し、その王都・金城を包囲

この時、新羅の王自ら出陣し、倭軍は逃走した。
新羅は軽騎兵を派遣して追撃、倭兵の死体と捕虜は合わせて千人にも及んだ。
(三国志記・新羅本紀より)

233年:倭軍が新羅の東方から攻め入った

新羅の伊飡の昔于老(新羅の将軍)が沙道という地で倭軍と戦った。
昔于老は火計をもって倭軍の船を焼いたので、倭兵は溺れて全滅した。
(「三国志記・于老列伝」より)

景初二年(239年)12月:卑弥呼、初めて難升米らを魏に派遣

倭国からの使者として、難升米(なしめ)を魏に派遣する。
この時、魏から親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられた。
(魏志倭人伝より)

正始元年(240年):帯方郡から魏の使者が倭国を訪れる

詔書、印綬を奉じて倭王に拝受させた。
(魏志倭人伝より)

正始四年(243年)12月:倭王は大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を復遣使として魏に派遣

掖邪狗らは率善中郎将の印綬を受けた。
(魏志倭人伝より)

正始六年(245年):難升米に黄幢を授与

ただし帯方郡に付託した状態でありこの段階では倭国にはまだ届けられてはいなかった。
(魏志倭人伝より)

正始八年(247年):倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣

魏に狗奴国との戦いを報告した。
魏は張政を倭に派遣し、難升米に詔書、黄幢を授与。
(魏志倭人伝より)

時期不明:卑弥呼死亡

卑弥呼が死に、墓が作られた。
男の王が立つが、国が混乱し互いに誅殺しあい千人余が死んだ。
卑弥呼の宗女「壹與」を13歳で王に立てると国中が遂に鎮定した。
倭の女王壹與は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。
(魏志倭人伝より)

なお、中国歴史書の「梁書」には、「正始年間(240年〜249年)」に卑弥呼が死亡しているとしている。

249年:倭国使臣が新羅(朝鮮)の昔于老を暗殺

倭国使臣が新羅の舒弗邯の昔于老を殺した。
(「三国志記・于老列伝」より)

266年:倭(邪馬台国)からの最後の使者

記録上の「邪馬台国」からの最後の使者。
その後の倭国(日本地域)からの使者は、ヤマト王権が派遣元である可能性が高い。
(普書より)

287年:倭軍が新羅(朝鮮)に攻め入る

倭軍は一礼部を襲撃して火攻めにした。倭軍は新羅兵千人を捕虜にした。
(三国志記・新羅本紀より)

卑弥呼の墓

卑弥呼の墓の形状

卑弥呼の墓の予想図

卑弥呼が死亡した時に、倭人は直径百余歩の墓を作り、奴婢100余人を殉葬したとされている。
この時代の中国の百歩は日本語で言うところの二百歩(1歩あたり約75cmとして、周囲約300m、直径・約100m)に相当する。
塚の大きさが直径で記されているところから、円墳ないしそれに近い形状であったと考えられる。

しかし、一歩の単位については、魏志倭人伝の行程表記で短里を採用している可能性が高いことから、これに従えば一歩は0.3m、墓の径は30m前後と考えられる。

さらに、魏や楽浪郡の有力者の墓の径は殆どが30m前後の円墳もしくは方墳であることから、卑弥呼の墓は径が約30mの円墳ないしそれに近い形状で、定型的な前方後円墳では無いとも考えられる。

卑弥呼の墓とされる候補として、以下が有力なものである。

邪馬台国畿内説の奈良県桜井市の箸墓古墳を卑弥呼の墓なのか?

箸墓古墳(Wikipediaより)

箸墓古墳を卑弥呼の墓とする説があるが、箸墓古墳の後円部は約150mの巨大な前方後円墳であり、魏志倭人伝による規模(30m〜100m)と形状が異なる。
調査によると、箸墓古墳の築造年代は3世紀末〜4世紀初頭であるとされるが、卑弥呼の死去が3世紀中期なので時期的に矛盾する。

*箸墓古墳の問題点*
1)形状が魏志倭人伝では円墳であるように書かれているが、箸墓古墳は前方後円墳である。
2)規模が大きすぎる。
3)築造年代が新しすぎる。

邪馬台国九州説の福岡県苅田町・石塚山古墳は卑弥呼の墓なのか?

石塚山古墳(クロスロードふくおかHPより)

石塚山古墳を邪馬台国九州説における卑弥呼の墓とする説があるが、築造時期は3世紀中頃とされるため卑弥呼の死去時期と一致するが、形状が前方後円墳で、長さは120m〜130m前後と規模と形状が魏志倭人伝の記載と異なる。

*石塚山古墳の問題点*
1)形状が魏志倭人伝では円墳であるように書かれているが、石塚山古墳は前方後円墳である。
2)規模が大きすぎる。

邪馬台国九州説の福岡県糸島市・平原遺跡は卑弥呼の墓なのか?

平原遺跡1号墓(Wikipediaより)

平原遺跡については古墳時代以前、弥生時代後期から晩期の5つの墳丘墓がある遺跡である。
しかし、墳墓の規模は魏志倭人伝の記載より小さく、また周囲には多人数の殉葬の墳墓が見つかっていない。

*平原遺跡の問題点*
1)形状が魏志倭人伝の記述よりも、規模が小さすぎる。
2)殉葬者の墓がない。

邪馬台国九州説の福岡県久留米市・祇園山古墳は卑弥呼の墓なのか?

久留米市「強度の文化財(第6版)」より

祇園山古墳は築造時期が3世紀中期と考えられ、形状(円形)や規模(直径23m)が一致し、石棺はあるが槨が無いこと、石棺に朱が塗られていること、周囲に数十名分の殉葬とみられる墓があること、周囲の甕棺から後漢鏡片や大型勾玉などの豪華な装身具が出土していること、G1墓からは鉄製の武器や農機具が出土していること、などが魏志倭人伝の記載と良く一致する。
しかし、石室の副葬品が盗掘のため殆どが失われており、わずかに高良大社に出土品と伝えられる三角縁神獣鏡(33方格獣文帯 鈕座「天王日月日月」)があるのみである。

*祇園山古墳の問題点*
1)盗掘にあっていて、確認が困難。

卑弥呼は誰なのか?

卑弥呼は一体誰なのか?
その人物比定候補者として以下が挙げられている。

天照大神(アマテラス)

中華の史書に残るほどの人物であれば、日本でも特別の存在として記憶に残るはずで、日本の史書でこれに匹敵する人物は天照大神(アマテラスオオミカミ)しかないとする説。
卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命=天照大神の説もある。

アマテラスの別名は「大日孁貴」(オオヒルメノムチ)であり、この「ヒルメ」の「ル」は助詞の「ノ」の古語で、「日の女」となる。意味は太陽に仕える巫女のことであり、卑弥呼(陽巫女)と符合するとする。

なお、卑弥呼=天照大神(アマテラス)説は、邪馬台国九州説との親和性が強い
卑弥呼の没したとされる近辺に、247年3月24日と248年9月5日の2回、北部九州で皆既日食がおきた可能性があることが天文学上の計算より明らかになっており(大和でも日食は観測されたが北九州ほどはっきりとは見られなかったとされる)、記紀神話に見る天岩戸にアマテラスが隠れたという記事(岩戸隠れ)に相当するのではないかという見解もある。

また、卑弥呼がアマテラスだとすれば、邪馬台国は天または高天原ということになり、九州にあった邪馬台国が後に畿内へ移動してヤマト王権になったとする(邪馬台国東遷説)。それを伝えたのが『記紀』の神武東征と考えられている。

実際、記紀神話においては、筑紫島(九州)には顔が4つあり、それぞれ、

  • 白日別(しらひわけ):筑紫国(九州北部)
  • 豊日別(とよひわけ):豊国(九州東部)
  • 建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくじひねわけ):肥国(九州西部)
  • 建日別(たけひわけ):熊曽国(九州南部)

という名称が付けられている。
全ての神に「ひ(日)」の字が当てられていることから、九州は太陽を信仰していた地域だった可能性が高い。
これにより、卑弥呼=「日巫女」という解釈が成り立つ。

倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)

倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)とは、第7代孝霊天皇皇女で、大物主神(三輪山の神)との神婚譚や、箸墓古墳伝承で知られる、巫女的な女性である。
纏向遺跡の「箸墓古墳」は、宮内庁によれば倭迹迹日百襲媛命の墓だとされている。
もし纏向遺跡が邪馬台国であり、箸墓古墳が倭迹迹日百襲媛命の墳墓なのであれば、卑弥呼は倭迹迹日百襲媛命ということになる。

実際、日本書紀において倭迹迹日百襲媛命は「巫女」としての役割を担っており、卑弥呼も巫女として倭国を統治していたことと共通性が高い。

神功皇后

神功皇后は、仲哀天皇の皇后であり、古代日本の摂政(在位:神功皇后元年10月2日 – 神功皇后69年4月17日)であったとされる、伝説上の人物。

神功皇后を卑弥呼とみる説は、特に江戸時代までは有力視されていた
それは、『日本書紀』の「神功皇后紀」の記述において、同時代の「魏志倭人伝」の記述が引用されているからである。
その記述とは、

  • 神功皇后摂政39年(239年)
    • 魏志云:明帝景初三年六月 倭女王 遣大夫難斗米等 詣郡 求詣天子朝獻 太守鄧夏 遣吏將送詣京都也
    • 日本語訳:魏志によると明帝の景初3年6月、倭の女王は大夫の難升米等を郡(帯方郡)に遣わし天子への朝獻を求め、太守の劉夏は吏將をつけて都に送った
  • 神功皇后摂政40年(240年)
    • 魏志云:正始元年 遣建忠校尉梯携等 奉詔書印綬 詣倭国也
    • 日本語訳:魏志によると正始元年、建中校尉の梯儁らを遺わして倭國に詔書・印綬を与えた
  • 神功皇后摂政43年(243年)
    • 魏志云:正始四年 倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻
    • 日本語訳:魏志によると正始4年、倭王はまた大夫の伊聲耆・掖邪狗たち8人を遣わして朝貢した
  • 神功皇后摂政66年(266年)
    • 是年 晋武帝泰初二年晋起居注云:武帝泰初二年十月 倭女王遣重譯貢獻
    • 日本語訳:この年は晋の武帝の泰始2年である。晋の起居注という記録によると泰初2年10月に倭の女王が使者を送り通訳を重ねて朝貢した

このことから、神功皇后が摂政をしていた時代を「卑弥呼の時代」と解釈するものである。

また、神功皇后は「三韓征伐」など、朝鮮を攻めたことが記述されている。
卑弥呼が倭国を統治していた時代(200年〜240年頃)は、倭国が新羅を攻めていた時期(200年〜289年頃)と重なることも、卑弥呼=神功皇后説を支持している。

しかし、逆に言えば、魏志倭人伝に「卑弥呼は倭国の女王」と明記されているにも関わらず、日本書紀で神功皇后と卑弥呼の関係について全く触れていないことが不自然とも言える。

熊襲の女酋長

江戸時代の国学者である本居宣長が唱えた説として有名。
卑弥呼とは、当時の近畿・ヤマト王権に最後まで抵抗していた九州・熊襲が、魏に対し「倭国の女王は私である」と僭称したとする説。

本居宣長は邪馬台国を畿内大和、卑弥呼を神功皇后に比定した上で、神功皇后を偽称するもう一人の卑弥呼がいたとした。
ニセの卑弥呼は九州南部にいた熊襲の女酋長であって、勝手に本物の卑弥呼(=神功皇后)の使いと偽って魏と通交したとした。
また、宣長は『日本書紀』の「神代巻」に見える火之戸幡姫児千々姫命(ヒノトバタヒメコチヂヒメノミコト)、あるいは萬幡姫児玉依姫命(ヨロツハタヒメコタマヨリヒメノミコト)等の例から、貴人の女性を姫児(ヒメコ)と呼称することがあり、神功皇后も同じように葛城高額姫児気長足姫(カヅラキタカヌカヒメコオキナガタラシヒメ)すなわち姫児(ヒメコ)と呼ばれたのではないかと憶測している。

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