邪馬台国「四国・徳島説」

邪馬台国
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四国説を考える上での前提

邪馬台国・四国説を考える上での前提を以下のページで紹介している。
こちらを予め読んでおいてほしい。

邪馬台国「四国説」

その上で、今回は「四国・徳島説」を紹介する。

邪馬台国は徳島にあった

邪馬台国が徳島にあったと考える説がある。
ウィキペディア「邪馬台国四国説」
*群昇(郷土史家)編集:『邪馬壱国は阿波だった魏志倭人伝と古事記との一致』新人物往来社
*山中康夫(元テレビプロデューサー):『高天原は阿波だった』講談社

四国説を紹介した番組も放送されている。
2009年には、テレビ東京の『新説!?みのもんたの日本ミステリー!失われた真実に迫る』が放送された。

日本最古の前方後円墳が徳島で確認されたことがその理由である。
中でも徳島は、邪馬台国が登場する時代以前から、古墳を作るような重要な都市国家であったことが分かっている。

また、魏志倭人伝では邪馬台国からは水銀丹(朱)が出るとしているが、弥生時代に水銀を採掘していたのは徳島県(若杉山遺跡)だけとしている。
(実際には、三重県の「丹生鉱山」などが縄文時代から採掘されている)

この徳島の邪馬台国が、拠点を海を東に渡って畿内に移したのがヤマト王権という趣旨だ。

邪馬台国=女王国(卑弥呼のいる場所、首都)ではない

邪馬台国「四国説」
でも解説しているが、そもそも、「邪馬台国」は魏志倭人伝には1回しか記述されておらず、どのような「国・都市・集落」なのかも不明である。
ここから、邪馬台国を「連合国家」と見做す説もたくさん出ている。

その一方で、あたかも「邪馬台国」と同一視されているのが「女王の都・国」の記述だ。

原文:南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月  官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬餘戸

日本語訳:南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。官に伊支馬(いきま)、弥馬升(みましょう)、弥馬獲支(みまかくき)、奴佳鞮(なかてい)があり、推計7万余戸。

このような記述から、一般的には、

「邪馬台国女王の都」

だと解釈されるわけだが、しかしこれは、

「女王の都邪馬台国にある」

と解釈することもできる。

すなわち、邪馬台国と女王国は別物とも読める。
つまり、魏志倭人伝にある「邪馬台国」とは、「女王国」を含む連合国の可能性もあるのだ。

このことは、魏志倭人伝における書き分けとして、以下が考えられる。

倭国=日本列島にある国々
倭人=日本列島に住んでいる人々
邪馬台国=倭国における有力な連合国であり、投馬国や狗奴国はその他の連合国
女王国=卑弥呼が統治している国々
女王の都=卑弥呼が住んでいる首都

そのように読めば、魏志倭人伝の記述から有力視されている「九州説」だけでなく、近畿説やその他の場所も十分に検討に値する。

事実、魏志倭人伝では邪馬台国の人口を、
「推計7万余戸(約30万人)」
としているが、これはあまりにも莫大な人口規模である。
当時(3〜4世紀)の中国(魏)の首都・洛陽でも20万人(後に50万人)ほどであるから、
ましてや平地の少ない日本の国土で、一か所に何十万人も暮らすというのは考えにくい。
参考:歴史上の推定都市人口(ウィキペディア)

魏志倭人伝を素直に読むのであれば、邪馬台国は広域連合国家と解釈するのが自然である。

そして、その首都である「女王の都」「女王国」は日本おける最大都市である必要はなく、「鬼道(呪術)によって民衆を惑わした」とされる卑弥呼にとっては、神聖な場所であればいいのだ。

そう考えれば、いわゆる「邪馬台国(事実上の首都「女王の都」)」は徳島にあったと考えるのも無理な話ではない。

四国・徳島説の行程

一般的に考えられているルート

よく知られている「四国・徳島説」の行程は以下のようになる。

研究者によっては、高知県西部の投馬国から先は「南へ水行10日、または陸行1ヶ月」と読む人もいるが、高知県西部から徳島まで水行10日では無理があるし、徒歩で1ヶ月という速度も速すぎる。

平安時代に書かれた紀貫之『土佐日記』には、土佐から京に帰る様子を伝えているが、その移動期間は水行で約50日だ。
土佐日記によれば、土佐(高知)から阿波(徳島)まで約1ヶ月かかっている。
とてもじゃないが、それ以前である弥生時代の航海技術と道路整備では厳しいことが分かるだろう。

逆に言えば、土佐日記がこの行程を補完してくれるとも言える。
まず、土佐日記が書かれた時代には徳島・大阪方面には船で移動しているが、実はこのルートが出来たのは平安時代から。
それまでは退避地や宿場となる船着き場が無く、弥生時代には船で移動できなかったのだ。
ゆえに、高知市付近から徳島までを1ヶ月かけて陸行したというのは辻褄が合う。

次に、「瀬戸内海を通ればいい」という批判もあるが、これは外国・使節団にとっては自殺行為だ。
瀬戸内海は思っているほど簡単に通れる海ではない。
潮流が速く複雑であるし、何より瀬戸内海は「海賊」が跋扈している危険地帯なのだ。
よそ者が瀬戸内海で船を漕げば、まともに航行できない。それを狙ったのが瀬戸の海賊である。
これを討伐・平定し、神戸・福原に遷都しようとしたのが平清盛の時代である。

たしかに瀬戸内海は、古代日本で交易によって栄えたとされている。
つまり、経済活動は活発であった。
しかし、この海域を航行するのは、地元漁師や海賊とコネのある者、もしくは高い操舵技術と兵士を持つ上級者コースなのである。
倭国の案内人としても、上級者コースより初心者コースで使節団を案内しようと考えたのかもしれない。

別ルートを考えてみる

邪馬台国・四国説を唱える上で課題となるのが、魏志倭人伝にある「邪馬台国は帯方郡から1万2000里にある」という記述だ。
そして、都市の規模が投馬国5万戸、邪馬台国7万戸という途方もない大きさも課題となる。

これを妥当な人口規模として解釈するために、「邪馬台国・四国説」のページでは、瀬戸内海の四国側を邪馬台国として解釈することを試みた。
以下の図である。

この考え方を用いれば、上述したような「瀬戸内海は危険地帯」ではなく、瀬戸内海は邪馬台国にとっての庭になる。
よって、勢力図や移動ルートも以下のようになるのではないか。

なぜ邪馬台国ルートだけが水行10日なのか?
それは、邪馬台国・女王国へは来島海峡から陸行した可能性があるからだ。

来島海峡は、日本で最も潮流が速い場所として知られている。
古来、「一に来島、二に鳴門、三と下って馬関瀬戸」と呼ばれるほどの海の難所、超危険地帯なのである。

それゆえ、九州側から来た要人が四国側に移りたければ、ここで船を降りるのが安全ではないだろうか。
逆に、本州側は潮の流れが比較的穏やかなため、そのまま船で移動できたはずだ。
向かう先は、吉備王国があったとされる「投馬国の中心地」岡山だったかもしれない。

周防大島から広島にかけてのルートは不明である。
大小様々な島があるため、当時の人たちが効率的と思われるルートを使ったのだろう。
来島海峡を中心とした図を以下に示す。

「来島海峡を越えたところから水行に戻せばいいのでは?」
と考えられるかもしれないが、実際のところ、当時の航海は基本的には「危険」なのである。

それよりも、今治から新居浜、四国中央市にかけての海岸線はなだらかな土地が続くため、陸行した方が天候に左右されずに移動できたのかもしれない。

一大率は女王国(徳島)の北(鳴門)に置いた?

原文:自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國。

和訳:女王国より北に特に一大率という官が置かれ、諸国を検察し、諸国は之を畏れており、伊都国に常駐していた。

魏志倭人伝・日本語訳はウィキペディアによる

伊都国から出張してくる一大率は、徳島説では鳴門あたりに配置されていたものと思われる。
理由としては、一大率の仕事内容が、

日本語訳:倭王が魏の都や帯方郡、韓の国に使者を派遣したり、帯方郡の使者が倭国に遣わされた時は、いつも港に出向いて荷物の数目を調べ、送られる文書や賜り物が女王のもとに届いたとき、間違いがないように点検する。

というものであるため、倭王たちの船が行き来する港に近く、女王国に入国する荷物の点検がしやすい場所にあると考えられる。
その点、鳴門海峡に陣取っておけば、女王国からほど近いところであり、そこから瀬戸内海における海上交通の要衝である、高松、小豆島、児島の港を監視していたものと思われる。

おそらく、本州側にあったと思われる倭国の諸国は、一旦、小豆島や児島に船をつけて一大率による検察を受けるよう義務付けられていたのではないだろうか。
そこで得られた許可証を、伊都国でもう一度見せる必要があったのかもしれない。
伊都国を出れば、ようやく朝鮮半島に向けて出港できるからだ。
わざわざ伊都国から一大率を出張させる意義は、そこにあったと思われる。

逆に、伊都国の人間が不正を働けば、女王国に出張している一大率が人質になるわけだ。

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