垂仁天皇 活目入彦五十狭茅天皇
![](https://i2.wp.com/kodainippon.com/wp-content/uploads/2019/07/image-40.png?resize=225%2C253)
即位
活目入彦五十狭茅天皇は崇神天皇の第三子である。
母は大彦命の娘である御間城姫という。
天皇は崇神天皇の二十九年一月一日、瑞籬宮に生まれられた。
生まれつきしっかりとしたお姿で、壮年になる頃には非常に度量が大きかった。
人となりが正直で、飾ったり偏屈なところがなかった。
父の天皇が可愛がられて、常に身辺に留めおかれた。
二十四歳の時、夢のお告げにより皇太子となられた。
六十八年冬十二月、崇神天皇が亡くなられた。
元年春一月二日、皇太子は皇位につかれた。
冬十月十一日、崇神天皇を山辺道上陵に葬った。
十一月二日、先の皇后を尊んで皇太后といわれた。
この年、太歳壬辰。
二年春二月九日、狭穂姫を立てて皇后とされた。
誉津別命を生まれた。
天皇はこれを愛して、常に身近におかれた。
大きくなっても物を言われなかった。
冬十月さらに纏向に都をつくり、珠城宮といった。
![](https://i1.wp.com/kodainippon.com/wp-content/uploads/2019/07/image-55.png?resize=400%2C261)
任那(みなま)・新羅(しらぎ)抗争のはじまり
この年、任那の人である蘇那曷叱智が、
「国に帰りたい」
と言った。
先皇の御世に来朝して、まだ帰らなかったのであろうか。
彼を厚くもてなされ、赤絹を百匹(100枚)を持たせて任那の王に贈られた。
ところが、新羅の人が途中でこれを奪った。
両国の争いはこのとき始まった。
また一説によると、崇神天皇の御世に、額に角の生えた人が、ひとつの船に乗って越の国の笱飯の浦に着いた。
それで、そこを名づけて角鹿(敦賀)という。
「何処の国の人か」と尋ねると、
「大加羅国の王の子、名は都怒我阿羅斯等、またの名は于斯岐阿利叱智干岐という。日本の国に聖王がお出でになると聞いてやってきました。穴門(長門国の古称)に着いたとき、その国の伊都都比古が私に、『私はこの国の王である。私の他に二人の王はない。他の所に勝手に行ってはならぬ』と言いました。しかし、私はよくよくその人となりを見て、これは王ではあるまいと思いました。そこで、そこから退出しました。しかし、道が分らず島浦を伝い歩き、北海から回って出雲国を経てここに来ました」
と述べた。
このとき、天皇の崩御があった。
そこで、留まって垂仁天皇に仕え三年たった。
天皇は都怒我阿羅斯等に尋ねられ、
「自分の国に帰りたいか」
と問うと、
「大変帰りたいです」
と答えた。
天皇は彼に、
「お前が道に迷わず速くやってきていたら、先皇にも会えたことだろう。そこでお前の本国の名を改めて、御間城天皇の御名をとって、お前の国の名にせよ」
と言われた。
そして、赤織の絹を阿羅斯等に賜わり、元の国に返された。
ゆえに、その国を名づけてミマナの国というのは、この縁によるものである。
阿羅斯等は賜った赤絹を自分の国の蔵に収めた。
新羅の人がそれを聞いて兵を伴いやってきて、その絹を皆、奪った。
これから両国の争いが始まったという。
![](https://i0.wp.com/kodainippon.com/wp-content/uploads/2019/07/image-43.png?resize=440%2C342)
また別の説によると、はじめ、都怒我阿羅斯等は国にいたとき、黄牛に農具を負わせて田舍に行った。
ところが、黄牛が急にいなくなった。
跡を追って行った。
足跡がある邑の中に留まっていた。
一人の老人が言った。
「お前の探している牛は、この村の中に入った。村役人が言うのに、『牛が背負っていた物から考えると、きっと殺して食べようとしているのだろう。もしその主がやってきたら、物で償いをしよう』と言って、殺して食べてしまった。もし『牛の代価に何を望むか』と言われたら、財物を望むな。『村にお祀りしてある神を欲しい』と言いなさい」
と言った。
しばらくして、村の役人が来て言った。
「牛の代価は何を望むか」
回答は、老人に言われたようにした。
その祀る神は、白い石であった。
それで、白い石を牛の代りとした。
それを持ち帰って寝屋の中に置いた。
すると、石は美しい乙女になった。
阿羅斯等は大変喜んで交合しようとした。
しかし阿羅斯等がちょっと離れたすきに、娘は失せてしまった。
阿羅斯等は大変驚き、妻に尋ねた。
妻は答えて、
「東の方に行きました」
と言う。
探して追って行くと、海を越えて日本国に入った。
探し求めた乙女は、難波に至って比売語曽社神となった。
また、豊国の国前郡に行って、比売語曽社神となった。
そして、この二箇所に祀られているという。
三年春三月、新羅の王の子、天日槍がきた。
持ってきたのは、羽太の玉一つ、足高の玉一つ、鵜鹿鹿の赤石の玉一つ、出石(但馬国のこと)の小刀一つ、出石の样一つ、日鏡一つ、熊の神籬一具、合せて七点であった。
それを但馬国におさめて、神宝とした。
一説には、はじめ、天日槍は、船に乗って播磨国に来て、宍粟邑にいた。
天皇が三輪君の祖の大友主と、倭直の祖の長尾市を遣わして、天日槍に、
「お前は誰か。またどこの国の人か」
と尋ねられた。
天日槍は、
「私は新羅の国の王の子です。日本の国に聖王がおられると聞いて、私の国を弟である知古に授けてやってきました」
と言う。
そして奉ったのは、葉細の珠、足高の珠、鵜鹿鹿の赤石の珠、出石の刀子、出石の槍、日鏡、熊の神籬、胆狭浅の太刀、合せて八種類である。
天皇は天日槍に詔して、
「播磨国の宍粟邑と、淡路島の出浅邑の二つに、汝の心のままに住みなさい」
と言われた。
しかし天日槍は申し上げた。
「私の住む所は、もし私の望みを許して頂けるなら、自ら諸国を巡り歩いて、私の心に適った所を 選ばせて頂きたい」
と言った。
そのお許しがあった。
そこで、天日槍は宇治河を遡って、近江国の吾名邑に入ってしばらく住んだ。
近江からまた若狭国を経て、但馬国に至り居処を定めた。
近江国の鏡邑の谷の陶人は、天日槍に従っていた者である。
天日槍は但馬国の出石の人、太耳の娘である麻多烏を娶って、但馬諸助を生んだ。
諸助は但馬日樁杵を生んだ。
日播杵は清彦を生んだ。
清彦は田道間守を生んだとされる。
![](https://i0.wp.com/kodainippon.com/wp-content/uploads/2019/07/image-44.png?resize=512%2C512)
狭穂彦王の謀反
四年秋九月二十三日、皇后の兄である狭穂彦王は、謀反を企てて国を傾けようとした。
皇后が休息して家におられるときを伺い、皇后に語って、
「お前は兄と夫と何れが大事か」
と言った。
皇后は、尋ねられた意味が分らず、
「兄が大事です」
と言った。
すると皇后に、
「容色を以て人に仕えるのは、色香が衰えたら寵愛は終る。今、天下に美人は多い。それぞれ寵愛されることを求めている。どうして容色だけを頼みにできようか。それでもし自分が皇位につけば、お前と一緒に天下に臨むことができる。枕を高くして百年でもいられるのは快いことではないか。どうか、私の為に天皇を殺してくれ」
と言った。
そして匕首(短刀)を皇后に授けて、
「この匕首を衣の中に忍ばせ、天皇が眠っておられるときに頸を刺して殺せ」
と言った。
皇后は心戦慄き、なすべきを知らなかった。
しかし、兄の志を思うと、たやすく諫めることもできなかった。
その匕首を独り隠すこともできず、衣の中につけた。
五年冬十月一日、天皇は来目にお越しになり、高宮におられた。
時に、天皇は皇后の膝を 枕に昼寝をされた。
しかし、皇后は事を行われなかった。
「兄の謀反はこの時なのに」
と思うと、涙が流れて帝の顔に落ちた。
天皇は驚いて目を覚まされ、皇后に語って言われた。
「私は今、夢をみた。錦色の小さな蛇が、我が頸に巻きついた。大雨が狭穂から降ってきて、顔を 濡らすと見えたのは、何の兆しなのだろう」
皇后は謀を隠し得ないことを知って、 恐れて地に伏し、詳しく兄王の謀反のことを申し上げられた。
「私は兄の王の志に違うこともできず、天皇の御恩に背くこともできません。告白すれば兄の王を殺すことになり、言わなければ国を傾けることになります。それで恐れと悲しみで、仰いでは咽び、感極まって血涙を流しました。昼も夜も苦悩のために胸につかえて、訴え申し上げることもできません。天皇が今日、私の膝を枕に休まれ、もし狂った女が兄のため、この時にとでも思ったら、手間もかけずに成功するでしょうと、この思いがまだ終わらないのに、涙が溢れ、袖より落ちて、帝の顔を濡らしました。夢にご覧になったのは、このことの現れでしょう。錦の小蛇というの は、私が預かった匕首です。雨が降ったのは私の涙です」
天皇は皇后に、
「これはお前の罪ではない」
と言われた。
身近にいる兵を遣わして、上毛野の君の祖である八綱田に命じて、狭穂彦を討たせた。
狭穂彦は軍を起こして防いだ。
急いで稲を積んで城塞とした。
それが仲々破れなかった。
これを稲城という。
月が替っても降伏しなかった。
皇后は悲しんで、
「私は皇后といっても、兄王をこんなことで失っては、何の面目があって天下に臨めようか」
と言い、王子である誉津別命を抱いて、兄王の稲城の中に入られた。
天皇は軍勢を増やし、完全に城を取り囲み、詔して、
「速かに皇后と皇子を出しなさい」
と言われた。
それでも出てこないので、八綱田は火をつけて城を焼いた。
そこで皇后は皇子を抱いて、城の上を越えて出てこられた。
そして、
「私が兄の城に逃げ込んだのは、もしかしたら私と子のために、兄の罪を許されるかも知れぬと思ったからです。許されないならば、私に罪があることを知りました。捕われるよりは、自殺をいたします。私は死んでも天皇の御恩は忘れません。どうか私がやっていた後宮の仕事は、良い女の人にさせて下さい。丹波の国に五人の婦人がいます。貞潔の人たちです。丹波道主王の娘です(道主王は、開化天皇の子孫である彦坐王子である。また他の説では、彦湯産隅王の子とされる)。後宮に召入れて、補充として使って下さい」
と言った。
天皇は聞き入れられた。
火は燃え上がり、城は崩れて軍卒はことごとく逃げた。
狭穂王と妹は城の中で死んだ。
天皇は八綱田の功を褒めて、名を授けられた。
これを倭日向武火向彦八綱田という。
角力の元祖
七年秋七月七日、お傍の者が申し上げた。
「当麻邑に勇敢な人がいます。当麻蹶速といい、その人は力が強くて、角を折ったり、曲がった鈎を伸ばしたりします。人々に、『四方に求めても、自分の力に並ぶ者はないだろう。何とかして強い力の者に会い、生死を問わず力比ベをしたい』と言っています」
と言った。
天皇はこれをお聞きになり、群卿たちに詔して、
「当麻蹶速は天下の力持ちだという。これにかなう者はあるだろうか」
と言われた。
ひとりの臣が進み出て、
「出雲国に野見宿禰という勇士がいると聞いています。この人を蹶速に取り組ませてみたらよいと思います」
と言った。
その日に倭直の祖、長尾市を遣わして、野見宿禰が呼ばれた。
野見宿禰は出雲からやってきた。
当麻蹶速と野見宿禰に角力をさせた。
二人は向かい合って立った。
互いに足を挙げて蹴り合った。
野見宿禰は当麻蹶速のあばら骨を踏み砕いた。
また、彼の腰を踏みくじいて殺した。
そこで当麻蹶速の土地を没収して、すべて野見宿禰に与えられた。
これが、その邑に腰折田(山裾の折れ曲がった田)がある由来である。
野見宿禰は、そのまま留まってお仕えした。
十五年春二月十日、丹波の五人の女を召して後宮に入れた。
一番上を日葉酢媛という。
次を淳葉田瓊入媛という。
第三を、真砥野媛という。
第四を薊瓊入媛という。
第五を竹野媛という。
秋八月一日、日葉酢援を立てて皇后とされた。
皇后の妹の三人を妃とされた。
竹野媛だけは不器量であったので、里に返された。
その返されることを恥じて、葛野で自ら輿より落ちて死んだ。
それで、その地を名づけて堕国という。
今、弟国(乙訓)と呼ばれているのは、それが訛ったものである。
皇后である日葉酢媛命は三男二女を生んだ。
第ーを五十瓊敷入彦命という。
第ニを大足彦命(景行天皇)という。
第三を大中姫命という。
第四を倭姫命という。
第五を稚城瓊入彦命という。
次の妃である濘葉田瓊入媛は、鐸石別命と、胆香足姫命とを生んだ。
その次の妃である薊瓊入媛は、池速別命と稚麻津媛命を生んだ。
![](https://i0.wp.com/kodainippon.com/wp-content/uploads/2019/07/image-45.png?resize=800%2C385)
鳥取の姓
二十三年秋九月二日、群卿に詔して、
「誉津別命は三十歳になり、長い顎髯が伸びるまで、赤児のように泣いてばかりいる。そして、声を出して物を言うことがないのは何故か。皆で考えて欲しい」
と言われた。
冬十月八日、天皇は大殿の前にお立ちになり、誉津別皇子はその傍に付き従っていた。
そのとき白鳥の鵠が、大空を飛んでいった。
皇子は空を仰いで、鵠をごらんになり、
「あれは何物か」
と言われた。
天皇は皇子が鵠を見て、ロを利くことができたのを知り、喜ばれた。
傍の者に詔して、
「誰かこの鳥を捕えて献上せよ」
と言われた。
そこで、鳥取造の祖である天湯河板挙が、
「手前が必ず捕まえましょう」
と言った。
天皇は天湯河板挙に言われた。
「お前がこの鳥を捕えたら、きっと充分褒美をやろう」
湯河板挙は鵠の飛んで行った方向を追って、出雲まで行き、ついに捕えた。
ある人は「但馬国で捕えた」とも言う。
![](https://i2.wp.com/kodainippon.com/wp-content/uploads/2019/07/image-52.png?resize=400%2C268)
十一月二日、湯河板挙が鵠を奉った。
誉津別命はこの鵠を調教し、ついに物が言えるようになった。
これによって湯河板挙に賞を賜わり、姓を授けられ、鳥取造という。
そして鳥取部、鳥養部、誉津部を定めた。
伊勢の祭祀
![](https://i0.wp.com/kodainippon.com/wp-content/uploads/2019/07/image-51.png?resize=600%2C157)
二十五年春二月八日、阿倍臣の先祖である武淳川別、和珥臣の先祖である彦国葺、中臣連の先祖である大鹿島、物部連の先祖である十千根、大伴連の先祖である武日といった五大夫たちに詔して、
「先帝、崇神天皇は賢くて聖であり、聡明豁達、政治をよくご覧になり、神々を救い、躬を慎しまれた。それで人民は豊かになり、天下は太平であった。私の代にも神祇をお祀りすることを、怠ってはならない」
と言われた。
三月十日、天照大神を豊耜入姫命から離して、倭姫命に託された。
倭姫命は大神を鎮座申し上げるところを探し、宇陀の篠幡に行った。
さらに引返して近江国に入り、美濃をめぐって伊勢国に至った。そのとき天照大神は、倭姫命に教えて言われたのが、
「伊勢国はしきりに波が打ち寄せる、傍国(中心ではない国)の美しい国である。この国にいたいと思う」
というものである。
そこで大神のことばのままに、その祠を伊勢国に立てられた。
そして斎宮(斎王のいる宮)を五十鈴川のほとりに立てた。
これを磯宮という。
天照大神が、初めて天より降りられたところである。
一説には、天皇は、倭姫命を依代として、天照大神に差し上げられた。
それで倭姫命は、天照大神を磯城の神木の本にお祀りした。
その後、神のお告げにより、二十六年十月、甲子の日、伊勢国の渡遇宮にお移しした。
このとき、倭大国魂神が、穂積臣の先祖である大水ロ宿禰に乗り移って言われたのが、
「最初、はじまりのときに約束して、『天照大神は、全ての天原を治めよう。代々の天皇は、葦原中国の諸神を治め、私には自ら地主の神を治めるように』ということであった。ここで仰せ言が終った。先皇の崇神天皇は神祀をお祭りなさったが、詳しくその根源を探らないで、枝葉に走っておられた。それで天皇は命が短かった。今、汝は先皇の及ばなかったところを悔い、よくお祀りすれば、 汝の命も永く天下も太平であろう」
といわれた。
天皇はこの言葉を聞いて、誰に大倭大神を祀らせればよいのか、中臣連の祖である探湯主に仰せられて占わせた。
そして、淳名城稚姫命が占いに出た。
そこで、淳名城稚姫命に命じて、神地として穴磯邑に定め、大市の長岡の崎にお祠りした。
しかし、淳名城稚姫命は、すでに体が痩せ弱っていて、お祀りすることができなかった。
それで、大倭直の祖である長尾市宿禰に命じて祀らせたという。
二十六年秋八月三日、天皇は物部十千大連に詔して、
「たびたび使者を出雲に遣わして、その国の神宝を検めさせたが、はっきりと申す者もない。お前が自ら出雲に行って調べて来なさい」
と言われた。
十千根大連は、神宝をよく調べてはっきりと報告した。
それで神宝のことを司らさせた。
二十七年秋八月七日、神官に命じて、武具を神々にお供えすることの可否を占わせたら、吉(きち)と出た。
そこで、弓矢と太刀を諸々の神社に奉納した。
さらに、神地、神戸(神の料田や神社の民戸)を定めて、時期を決めてお祭りさせた。
武具を以て神祇を祭るということは、この時に始まったのである。
この年、屯倉(朝廷の直轄地)を来目邑にした。
![](https://i2.wp.com/kodainippon.com/wp-content/uploads/2019/07/image-50.png?resize=250%2C166)
野見宿踊と埴輪
二十八年冬十月五日、天皇の母の弟の倭彦命が亡くなられた。
十一月二日、倭彦命を身狭(橿原)の桃花鳥坂(築坂)に葬った。
このとき、近習の者を集めて、全員を生きたままで、陵(墓)のまわりに埋めた。
日が経っても死なず、昼夜泣き呻いた。
ついには死んで腐っていき、犬や鳥が集まり食べた。
天皇は、この泣き呻く声を聞かれて、心を痛められた。
群卿に詔して、
「生きている時に愛し使われた人々を、亡者に殉死させるのは痛々しいことだ。古の風であるといっても、良くないことは従わなくてもよい。これから後は、合議して殉死を止めるように」
と言われた。
三十年春一月六日、天皇は五十瓊敷命と大足彦尊に詔して、
「お前たち、それぞれに欲しい物を言ってみよ」
と言われた。
兄王は、
「弓矢が欲しいです」
といわれた。
弟王は、
「天皇の位が欲しいです」
といわれた。
そこで天皇は詔して、
「それぞれの望みのままにしよう」
と言われた。
弓矢を五十瓊敷命に賜わり、大足彦命には、
「お前は必ず、我が位を継げ」
と仰せられた。
三十二年秋七月六日、皇后である日葉酢媛命が亡くなられた。
葬るのにはまだ日があった。
天皇は群卿に詔して、
「殉死が良くないことは前に分った。今度の葬はどうしようか」
と言われた。
野見宿禰が進んで言った。
「君王の陵墓に、生きている人を埋め立てるのはよくないことです。どうして後の世に伝えられましょうか。どうか今、適当な方法を考えて奏上させて下さい」
使者を出して出雲国の土部を百人を呼んで、土部たちを使い、埴土で人や馬やいろいろの物の形を造って、天皇に献上し、
「これから後、この土物を以て生きた人に替え、陵墓に立て後世の決まりとしましょう」
と言った。
天皇は大いに喜ばれ、野見宿禰に詔して、
「お前の便法は誠にに我が意を得たものだ」
と言われ、その土物を始めて日葉酢媛命の墓に立てた。
よって、この土物を名づけて埴輪と呼んだ。
あるいは、立物ともいった。
命を下されて、
「今から後、陵墓には必ずこの土物をたてて、人を損ってはならぬ」
と言われた。
天皇は厚く野見宿禰の功を褒められて、鍛地(陶器を成熟させる地)を賜った。
そして、土師の職に任ぜられた。
それで本姓を改めて土部臣という。
これが土部連らが、天皇の喪葬を司る謂れである。
つまり、野見宿禰は土部連の先祖である。
三十四年春三月二日、天皇は山城にお出でになった。
時に、側仕えの者が言った。
「この国に美人がいます。綺戸辺といい、顔かたちが良く、山城大国の不遅の娘です」
天皇はそこで矛をとってこれに祈をされて、
「その美人に会ったら、必ず道路にめでたい瑞があるように」
と仰せられた。
行宮にお着きになる頃に、大亀が河の中から出てきた。
天皇は矛を挙げて亀を刺された。
亀は、たちまち岩になった。
お傍の人に、
「この物から推測すると、きっと霊験があるだろう」
と仰せられた。
こうして綺戸辺を召して後宮に入れられた。
そして磐衝別命を生んだ。
これは三尾君の先祖である。
これより先に、山城の莉幡戸辺を召された。
そして三人の男子を生んだ。
第一を、祖別命という。
第二を、五十日足彦命という。
第三を、胆武別命という。
五十日足彦命の子は石田君の先祖である。
三十五年秋九月、五十瓊敷命を河内国に遣わして、高石池(たかしのいけ)、茅淳池(ちぬのいけ)を造らせた。
冬十月に倭の狭城池と迹見池を造った。
この年、諸国に令して、池や溝を沢山開かせた。
その数は八百あまり。
農業を大切な仕事とし、これによって百姓は富み豊かになり、天下太平となった。
三十七年春一月一日、大足彦命を立てて皇太子とされた。
石上神宮
三十九年冬十月、五十瓊敷命は、茅濘(和泉の海域)の菟砥の川上宮にお出でになり、剣一千ロを造らせられた。
よってその剣を川上部という。
またの名を裸伴という。
これを石上神宮に納めた。
この後に五十瓊敷命に仰せられて、石上神宮の神宝を司らせた。
ある説によれば、五十瓊敷皇子は、茅淳の菟砥の河上にお出でになり、鍛冶の名は河上という者をお呼びになり、太刀一千ロを造らせられた。
この時に、楯部、倭文部、神弓削部、神矢作部、大穴磯部、泊衝部、玉作部、神刑部、日置部、太刀佩部など、合わせて十種の品部を五十瓊敷皇子に賜った。
その一千ロの太刀を忍坂邑に納めた。
その後、忍坂から移して石上神宮に納めた。
このときに神が、
「春日臣の一族で、名は市河という者に治めさせよ」
と言われた。
よって、市河に命じて治めさせた。
これが現在の、物部首(もののべのおびと)の先祖である。
八十七年春二月五日、五十瓊敷命が妹の大中姫に、
「私は年をとったから、神宝を司ることができない。今後はお前がやりなさい」
と言われた。
大中姫は辞退して言われる。
「私はか弱い女です。どうしてよく神宝を収める高い宝庫に登れましょうか」
五十瓊敷命は、
「神庫が高いといっても、私が梯子を造るから、庫に登るのが難しいことはない」
と言われた。
諺にも言う、「天の神庫は樹梯のままに」というのは、これがその由来である。
そして大中姫命は、物部十千根大連に授けて治めさせられた。
物部連が今に至るまで、石上 の神宝を治めているのは、これがその元である。
昔、丹波国(たんばのくに)の桑田村に、名を甕襲という人がいた。
甕襲の家に犬がいた。
名を足往という。
この犬は山の獣であるムジナを食い殺した。
獣の腹に八尺瓊勾玉があった。
それを献上した。
この宝は現在、石上神宮にある。
![](https://i0.wp.com/kodainippon.com/wp-content/uploads/2019/07/image-53.png?resize=400%2C225)
天日槍と神宝
八十八年秋七月十日、群卿に詔して、
「新羅の王子、天日槍が初めてやって来た時に、持ってきた宝物はいま但馬にある。国人に尊ばれて神宝となっている。私は今、その宝を見たいと思う」
と言われた。
その日に使者を遣わして、天日槍の曽孫である清彦に詔された。
清彦は勅を受けて、自ら神宝を捧げて献上した。
羽太の玉一つ、足高の玉一つ、鵜鹿鹿の赤石の玉一つ、日鏡一つ、熊の神籬一つである。
ただ、刀子が一つだけあり、名を出石という。
清彦は急に刀子は奉るまいと思って、衣のなかに隠して、自分の身につけた。
天皇はそれには気づかれず、清彦を労うため御所で酒を賜った。
ところが、刀子は衣の中から現れてしまった。
天皇はご覧になって清彦に尋ねて、
「お前の衣の中の刀子は何の刀子か」
と言われた。
清彦は隠すことはできないと思って白状して、
「奉るところの神宝の一つです」
と言った。
天皇は、
「その神宝は仲間と一 緒でなくても差し支えないのか」
と言われた。
そこでこれを差し出し奉った。
神宝は全部、神府に納められた。
その後、神府を開いてみると、刀子はなくなっていた。
清彦に尋ねさせられ、
「お前が奉った刀子が急になくなった。お前の所へ行っているのではないか」
と言われた。
清彦は答えた。
「昨夕、刀子がひとりで私の家にやって来ましたが、今朝はもうありません」
天皇は畏れ慎しまれて、また欲しがろうとはしなかった。
この後、出石の刀子は、ひとりでに淡路島に行った。
その島の人は、それは神だと思って、刀子のために祠を立て、今でも祀っている。
昔、一人の人間が小舟に乗って、但馬国にやってきた。
「何処の国の人か」
と尋ねると、こう答えた。
「新羅の王の子、名を天日槍という」
そして但馬に留まり、その国の前津耳の娘の麻拕能烏を娶とって、但馬諸助を生んだ。
これは清彦の祖父である。
田道間守
九十年春二月一日、天皇は田道間守に命じて、常世国に遣わして、「非時の香果」を求められた。
現在の橘のことである。
![](https://i1.wp.com/kodainippon.com/wp-content/uploads/2019/07/image-56.png?resize=400%2C300)
九十九年秋七月一日、天皇は纏向宮で崩御された。
時に、年百四十歳。
冬十二月十日、菅原の伏見陵に葬った。
翌年春三月十二日、田道間守は常世国から帰ってきた。
持ってきたのは、非時の香果を八竿八縵である。
田道間守は泣き嘆いて言った。
「命を承って遠く遥かな国に行き、万里の波を越えて帰ってきました。この常世国は、神仙の秘密の国で、俗人の行ける所ではありません。そのため、行ってくるのに十年も経ちました。本土に再び戻れるとは思いもかけなかったことです。しかし、聖帝の神霊の加護により、やっと帰ることができました。今、天皇は既に亡く、復命することもできません。私は生きていても何のためになりましょうか」
天皇の陵にお参りし、泣き叫んで死んだ。
群臣はこれを聞いて皆、泣いた。
田道間守は三宅連の先祖である。
![](https://i1.wp.com/kodainippon.com/wp-content/uploads/2019/07/image-54.png?resize=400%2C265)
コメント