宇佐神宮は邪馬台国女王・卑弥呼の神殿
邪馬台国・九州説の中でも、「宇佐神宮」の由来と邪馬台国を結びつける議論がある。
宇佐神宮は大分県宇佐市にある神社で、八幡宮の総本社。
宇佐神宮(wikipedia)
古来、日本における大切な神社として絶大な権威を持っているが、その創建の歴史を知る者はいない。
とにかく「我が国にとって大切な神社」として、地味ではあるが確固とした地位を持っているのである。
はっきり言って、意味不明な神社なのだ。
その意味不明で謎の歴史から、
「もしかすると、宇佐神宮は邪馬台国、卑弥呼の神殿だったのでは?」
という憶測も出てくるわけだ。
たしかに、「宇佐」は瀬戸内海の要衝であり、九州・近畿・瀬戸内海地域を掌握するには最適の場所である。
また、大陸(朝鮮・中国)との外交をするにも絶好の場所といえる。
宇佐に邪馬台国があってもおかしくないのだ。
邪馬台国・九州説の概要
邪馬台国・九州説のための基本情報は、
*邪馬台国・九州説
を参照のこと。
九州上陸後の候補地の中に、宇佐も含まれている。
本稿ではこの前提を踏まえた上で解説するため、未読の場合はそちらを参照してほしい。
邪馬台国は、東に海が見える土地
宇佐が邪馬台国である強力な要因として、魏志倭人伝には
原文:女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。
和訳:女王国から東へ海を1000里渡ると,また倭人の国がある。
という記述があるのだ。
女王国というのは卑弥呼が住んでいる場所、つまり邪馬台国である。
この書き方からして、邪馬台国は東側が海に面している場所ということになる。
その場所は九州説であれば九州東部であり、福岡県東部、大分県東側、宮崎県東側がその該当エリアになるだろう。
逆に言えば、一般に有力視されている九州説の「久米・熊本・みやま市・吉野ヶ里遺跡」などは、この記述に該当しなくなる。
もちろん、畿内説の奈良盆地・纏向遺跡も該当しない。
1000里は約60〜80km(または1日の全力航行で進める距離)と考えられている。
九州の東部であれば、中国地方や四国に「1000里」の海を渡ってたどり着ける距離の場所がたくさんある。
下図に、宇佐を中心として80kmの尺度も合わせて示した。
なお、1000里(約60〜80km)は直線航海距離とは限らない。
魏志倭人伝の「女王国から東へ海を1000里渡ると,また倭人の国がある。」という記述は、「船を使って1000里進めば」というものであろう。
なんにせよ、宇佐であれば「東に1000里の海を渡る」ことによって、古代遺跡のある代表的な場所に行けることが分かる。
また宇佐神宮周辺は、現在も宇佐市・豊後高田市、中津市、豊前市といった町があり、古代都市を作る上でも申し分ない場所である。
このあたり一帯が「邪馬台国」であった可能性もある。
それに、宇佐は日本の秘境百選にも選ばれている「国東半島」という特徴的な土地のお膝元でもある。
鬼道によって衆を惑わしていた女王の都として絶好の場所とも言える。
帯方郡から宇佐までのルート
帯方郡から九州上陸まではこちら。
九州説では、そこから先に様々な説が唱えられているが、本サイトでは以下の解釈を採用している。
すなわち、「帯方郡から邪馬台国まで1万2000里」であり、
末盧国・九州上陸後は残りの2000里をどこで消費するか?である。
末盧国から2000里の範囲は以下のようになる。
このことから、宇佐神宮はギリギリ入っていないことになるが、これを宇佐神宮ではなく「邪馬台国」に入国するまでの距離と考えれば可能性はある。
つまり、邪馬台国の西端は、豊前市や中津市だったのかもしれない。
そこから女王卑弥呼の神殿までは、まだ距離があったわけだ。
不弥国(福岡市東部、宇美町周辺)まで着た使節団は、そのまま東へ1300里(約100km)進む。
そこに邪馬台国があった。
水行10日、陸行1月の解釈
詳細は「邪馬台国・九州説」のページを参照のこと。
*邪馬台国・九州説
概要としては、不弥国以降の魏志倭人伝の記述である、
原文:南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。 官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮。可七萬餘戸。
魏志倭人伝・日本語訳はウィキペディアによる
和訳:南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。官に伊支馬(いきま)、弥馬升(みましょう)、弥馬獲支(みまかくき)、奴佳鞮(なかてい)があり、推計7万余戸。
については、帯方郡から邪馬台国に至るまでの日数を指しているというもの。
すなわち、水行10日とは、帯方郡から末盧国までにかかった1万里の航行。
そして、その後の記述に21カ国の「その他の傍国」は、陸行1ヶ月を意味するものと考えられる。
原文:自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。 次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、 次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、 次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、 次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國。 此女王境界所盡。
魏志倭人伝・日本語訳はウィキペディアによる
和訳:女王国の以北は、其の戸数・道里を略載することが可能だが、其の他の傍国は遠く絶(へだ)たっていて、詳(つまびらか)に得ることができない。斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国。此れが女王の境界が尽きる所である。
まず、宇佐市〜豊前市周辺を女王国・邪馬台国とすると、遠くへだっていて詳らかにできない以北の土地とは、「関門海峡」の向こう側、つまり山口県西部周辺のことではないだろうか。
たしかに、邪馬台国・女王が統治している地域とは言え、関門海峡を渡ってまで視察するのは大変である。
そして、しっかりと国の名前を覚えて書いている21カ国は、不弥国以降に邪馬台国に着くまでに訪れた国ではないかと考えられる。
末盧国から伊都国、奴国、不弥国と3カ国を回ってきているが、その後は1日毎に1国を訪れてきたわけだ。
おそらく、古賀市、宗像市、北九州市、直方市、行橋市などを点々と回ってきたものと思われる。
そうやって回ってきた日数を合計すると、約1ヶ月(30日)になる。
これが「陸行1ヶ月」の真相ではないか。
関門海峡に「一大率」を置いていた?
女王国の北方に重要な施設が用意されている記述がある。
原文:自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國。
魏志倭人伝・日本語訳はウィキペディアによる
和訳:女王国より北に特に一大率という官が置かれ、諸国を検察し、諸国は之を畏れており、伊都国に常駐していた。
この一大率は、関門海峡に配置されていたのではないだろうか。
関門海峡であれば、九州北部・中国地方・瀬戸内海地域といった諸国を検察するために最適の場所である。
特に邪馬台国より以東の国々としては、大陸と外交・交易をするには必ず通る場所だからだ。
それ故、普段は伊都国に常駐している一大率は、この関門海峡に出向して睨みを利かせるわけである。
邪馬台国・宇佐神宮説では、狗奴国はどこか?
原文:其南有狗奴國。男子爲王、其官有狗古智卑狗。不屬女王。
魏志倭人伝・日本語訳はウィキペディアによる
和訳:其の南には狗奴国がある。男子を王と為し、其の官に狗古智卑狗(くこちひく)が有る。女王に属せず。
邪馬台国の南にあるとされる、敵対勢力「狗奴国(くなこく)」についても考えてみよう。
宇佐神宮周辺が邪馬台国であるならば、狗奴国の候補となるのは大分県南部の別府市、大分市あたりが有力である。
また、「南」を広くとれば、九州北部より以南はすべて狗奴国とも言える。
つまり、福岡県南部、佐賀県、熊本県、宮崎県、鹿児島県の地域である。
実際、邪馬台国が「倭国」として代表的だったのは、大陸との玄関口である対馬〜東松浦半島、そして海路の拠点である関門海峡を統治していたからかもしれない。
逆にその他の国々としては、大陸と交易して最新技術を輸入する上で、邪馬台国が目の上のタンコブなのだ。
敵対していても不思議ではない。
コメント