邪馬台国「四国説」

邪馬台国
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邪馬台国は四国にあった

邪馬台国を四国に存在した国として魏志倭人伝の行程を読んでみる。

邪馬台国四国説は1970年代から提唱され始めた説で、一般的には、徳島説、高知説などがある。
邪馬台国四国説(ウィキペディア)

もとより、邪馬台国の位置は魏志倭人伝の解釈の仕方次第でどうにでも読めるものであり、日本に邪馬台国の記録が残っていない以上、考古学的に証明することも不可能である。
現在注目されている畿内・纏向遺跡にしても、どのような遺物が出てこようと、そこが「邪馬台国」であることを決定的に説明することはできない。
(理論的に考えて、「ここが邪馬台国です」という遺構が見つかるわけがないため)

このページでは、魏志倭人伝の記録を四国にあったものとして解釈してみる。

邪馬台国「四国説」に必要な想定

邪馬台国は7万戸の「大都市」だったのか?

邪馬台国は非常に大きな都市であるというイメージがある。
しかし、その想定がまず疑わしい。
邪馬台国の記述は以下のようなものである。

原文:南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮 可七萬餘戸

日本語訳:南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。官に伊支馬(いきま)、弥馬升(みましょう)、弥馬獲支(みまかくき)、奴佳鞮(なかてい)があり、推計7万余戸。

この7万戸というのは非常に大規模な都市である。
1戸に4〜5人住んでいたとして、約30万人。

これは奈良・平城京や京都・平安京の倍以上、魏志倭人伝を書いている魏の首都・洛陽(約20万人)よりも大きいことになる。
もしこの記述をそのまま信用すれば、邪馬台国は3〜4世紀の人類世界にあって、世界最大の都市だったことになる。
そんな都市が農耕技術も未熟な弥生時代の日本の、しかも平野部の少ない日本の一地域に本当に存在できたのか怪しい。

魏志倭人伝の後年に書かれている「後漢書・東夷伝」においても登場する「奴国」は、古代日本における首都・中心都市のような扱いをされている。
後漢書において奴国は、現在の福岡市周辺にあった都市だ。
そんな倭国の大都市・奴国は、魏志倭人伝では以下のような記述である。

原文:東南至奴國百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。

日本語訳:東南に100里進むと奴国に至る。長官は兕馬觚(しまこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)。2万余戸が有る。

魏志倭人伝における奴国と後漢書の奴国が同一のものであれば、福岡平野にある大都市・奴国でも2万戸(約10万人)。
その他にも、大陸との玄関口・末盧国は4000戸。
倭の諸国を統治する中心地であった伊都国は1000戸。
奴国からほど近い場所にある不弥国は1000戸。
という規模である。

投馬国と邪馬台国の人口は連合している諸都市の合算値?

この邪馬台国人口問題の辻褄を合わせる解釈がある。
邪馬台国へと向かう行程で唐突に書きぶりが変わるこの部分だ。

原文:南至投馬國、水行二十曰。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戸。南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。 官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮。可七萬餘戸。

日本語訳:南へ水行20日で、投馬国に至る。長官は彌彌(みみ)、副官は彌彌那利(みみなり)である。推計5万戸余。南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。官に伊支馬(いきま)、弥馬升(みましょう)、弥馬獲支(みまかくき)、奴佳鞮(なかてい)があり、推計7万余戸。

戸数が「推計値」になったり、移動を距離ではなく「日数」で現すようになった理由として、投馬国と邪馬台国は明確な国境が示せない性質の国だったのではないかと思われる。
つまり、大小様々な都市が寄せ集まって「投馬国」「邪馬台国」と称している「連合国」であった可能性がある。

しかも、倭人伝の著者は「南至邪馬壹國、女王之所都」とわざわざ書いており、その後も「自郡至女王國、萬二千餘里(帯方郡から女王国に至る、1万2000余里である)」とも書いている。
つまり、卑弥呼のいる「女王国」は、邪馬台国を構成する一部として扱われている可能性が高い。

どの地域を投馬国と邪馬台国にするかによって、四国説に様々な想像力を与えてくれる。

邪馬台国に至るまでの1万2000里の解釈

九州説最大の根拠であり、畿内説最大の弱点にもなっているのが「帯方郡からの距離」である。
四国説においても、この「帯方郡から1万2000里」をクリアしなければいけない。

帯方郡から1万2000里に入るエリアは以下の場所である。
帯方郡から末盧国までに1万里の距離を使っているため、そこから残り2000里の場所は、以下のエリアだ。

この距離の問題点については、「邪馬台国・宇佐神宮周辺説」を活用できる可能性がある。
邪馬台国・宇佐神宮周辺説
この説では、邪馬台国を宇佐神宮の周辺として捉えるものである。
下図における、右下(宇佐)が邪馬台国と考える説だ。

上述したように、投馬国や邪馬台国を連合国として捉えた場合、例えば瀬戸内海一帯の勢力をそのように解釈できる可能性がある。

邪馬台国・四国説をとる場合、例えば瀬戸内海・四国側を邪馬台国本州側を投馬国と捉えるわけだ。
イメージとしては以下のような状況である。
この図では邪馬台国・四国説を解説するために「四国全体」を範囲に納めているが、このうちの一部分であった可能性もある。

つまり、関門海峡を越えて瀬戸内海に入った時点で、そこが投馬国と邪馬台国の領土なのである。
このように考えれば、「帯方郡から1万2000里」の範囲に入る。

なぜ移動距離が日数に変わったのか

中国の使節団としては、不弥国からさらに東へ進んで関門海峡まで行き、そこから南方へ船を出したわけだ。
瀬戸内海地域に入った時点で、彼らは既に投馬国と邪馬台国に入国しているのである。

その位置から「南へ水行20日で投馬国の首都、水行10日と陸行1ヶ月で邪馬台国の首都」という意味にしたのではないだろうか。
投馬国と邪馬台国は、海洋国家・日本らしく瀬戸内海を統治する国だったのかもしれない。

だとすると、領土よりも経済水域を重要視することから、瀬戸内海一帯を「国」として見ていたことだろう。
関門海峡・東部に立ち、山口県側を指して「こっちが投馬国」、福岡・大分県側を指して「こっちが邪馬台国」と言われたのかもしれない。
だとすれば、「帯方郡から1万2000里で邪馬台国」という表記は正しいことになる。

さらに、この瀬戸内海の航行は非常に難しいことで知られており、天候や潮流によって点在する島々を縦横無尽に渡海・水行していた可能性が高い。

これまでの行程は、隣の島や地域へ移るだけだったため距離の測定がしやすかった。
ところが瀬戸内海の移動は、天候と潮流を読みながら東西南北バラバラに向かい、場合によっては投馬国と邪馬台国を行き来しながら進んだのではないだろうか。
それゆえ、使節団はこれ以降「距離」の記述ができず、仕方なく「日数」に変わったのかもしれない。

四国のどこに邪馬台国があったのか?

邪馬台国の具体的な位置については、それぞれのリンク先を参照のこと。

徳島説
高知説
愛媛説
香川説
*四国山脈説

  

コメント

  1. yunyn より:

    一万二千里の解釈は帯方郡から直線距離で狗邪韓国まで7千里
    直線距離で邪馬台国まで一万二千里
    対馬、壱岐間の千里を基準値として、帯方郡から狗邪韓国まで水行した場合7千里を遥かに超えてしまう。
    直線距離にすればちょうど7千里となる。

    同じように、帯方郡から東南に1万2千里、直線距離で測った場所に邪馬台国はある。

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