四国説を考える上での前提
邪馬台国・四国説を考える上での前提を以下のページで紹介している。
こちらを予め読んでおいてほしい。
その上で、今回は「四国・松山説」を紹介する。
邪馬台国は松山にあった
邪馬台国に対抗する古代日本の国家として「狗奴国」がある。
魏志倭人伝には邪馬台国の南にある国とされ、以下のように記されている。
原文:其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
日本語訳:其の南には狗奴国がある。男子を王と為し、其の官に狗古智卑狗(くこちひく)が有る。女王に属せず。
邪馬台国・九州説では、この狗奴国を四国・松山周辺にあった国と比定する説がある。
例えば、江戸時代の国学者・文献学者である本居宣長も、狗奴国を愛媛県の風早郡と考えた。
*狗奴国(ウィキペディア)
伊予松山は古代より温泉地(道後温泉)として知られる神秘的な土地であり、こうした特徴は古代人が国家建設にあたり大切なものと考えられる。
火を焚かなくても湯が得られる場所は、テクノロジーが発達した社会に生きる現代人が考える以上に、古代人の生活上極めて重要な要素である。
卑弥呼が住まう「女王の神殿」は、こうした温泉郷を基盤とした歴史を持っていたのかもしれない。
たしかに弥生時代においては「温泉」の重要性は薄れていたかもしれないが、それ以前の縄文時代より都市が形成されるまでの期間は、人間を寄せ集めるための看板として機能した可能性はある。
邪馬台国・四国説のなかでは、徳島説、高知説が説かれることが多いが、松山周辺に比定する方が地政学的には有力と言えよう。
松山が邪馬台国であることの地政学的な理由
温泉地としての神聖性以外にも、松山は古代日本における地政学的な有利さを持っている。
まず、「邪馬台国・宇佐説」と同様に、松山は瀬戸内海を牛耳れる位置にある。
西は関門海峡、南は豊予海峡、東は来島海峡に囲まれたこの海域は、一帯を統治すれば瀬戸内海西部において大きな交易空間が形成できる。
本ブログの「邪馬台国・四国説」では、その背景として「瀬戸内海を統治した連合都市・国」と解釈している。
「7万戸」という多すぎる人口や、不弥国以降の移動表記が距離から日数への変更は、それを示したものと考えられる。
邪馬台国・松山説の行程
邪馬台国・松山までの行程
邪馬台国のある松山までの行程、および周辺国の位置関係は以下のようになる。
魏志倭人伝を素直に読めば、不弥国のすぐ隣が邪馬台国と解釈できる。
その場合、不弥国を北九州周辺と比定した場合、周防灘に面する海岸線一帯が邪馬台国となる。
すなわち邪馬台国とは、この周防灘から伊予灘までの瀬戸内海を統治していたのではないだろうか。
つまり、邪馬台国は1箇所の土地だけで運営される都市ではなく、海域を使って貿易を生業とする連合都市国家なのだ。
そうすれば、推計7万戸という3〜4世紀当時の1都市としては多すぎる人口規模も説明がつく。
また、戸数の書き方も、それまでの国が「概算値」だったのを、「推計値」にしている理由でもあろう。
そして、投馬国および邪馬台国へと至る魏志倭人伝の記述が「距離」から「日数」へと変更した理由も、「女王の都」へと至る領地が、邪馬台国が治める海域だからである。
原文:南至投馬國 水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸
日本語訳:南へ水行20日で、投馬国に至る。長官は彌彌(みみ)、副官は彌彌那利(みみなり)である。推計5万戸余。
原文:南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬餘戸
日本語訳:南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。官に伊支馬(いきま)、弥馬升(みましょう)、弥馬獲支(みまかくき)、奴佳鞮(なかてい)があり、推計7万余戸。
すでに邪馬台国の領域内に入っているのだから、もう「距離」を示す必要はない。
使節団としては、連合都市国家・邪馬台国の中の、「女王国」に向かうことが目的となる。
おそらく、投馬国も同様のタイプの連合都市国家だったのであろう。
両者は瀬戸内海の佐多岬半島を境界として存在した、海洋国家だったのかもしれない。
また、投馬国は瀬戸内海を東進して松山を越えた先にある国だったかもしれない。
その場合、例えば以下のような図になる。
岡山県と香川県周辺にも大きな古代都市(吉備王国)があったことが推測されていることから、投馬国をそれに比定することもできる。
実際、邪馬台国・近畿説では、投馬国をこの位置に比定することが多い。
しかし、それでは、
原文:女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種
日本語訳:女王国から東へ海を渡って1000余里行くと、また別の国が有り、それらも皆、倭人と同じ人種である。
の説明がつきにくくなる。
松山が邪馬台国と考えると、その東側に属国があるのは不都合である。
陸行1ヶ月の説明
四国・松山説で解釈が難しいのは、陸行1ヶ月である。
周防大島経由で松山まで向かえば、水行だけで済む。
無理やり「陸行1ヶ月」の説明をしようとすれば、佐多岬半島から陸行させることになりそうだ。
これについては、当時の瀬戸内海水行事情として、
(1)周防大島よりも別府方面の方が安全・快適だった
(2)外国の要人を案内するには、周防大島方面は海賊が怖い
といったことが考えられる。
当時の技術では海難事故が多かったため、急いでいるわけでもない限り、できるだけ船を使う旅は避けたかったであろう。
もし船を使うにしても、すぐに陸へ避難できるように海岸線に沿って移動することになる。
だから、関門海峡を渡って山口県側にわざわざ渡るようなマネはしたくなかったはずだ。
ゆえに、魏志倭人伝のように大分県方面へ南進したの合理的な選択である。
そのまま南進して豊予海峡を渡ったら、そこから先は陸行したわけである。
現地の倭人としても、外国の要人を案内するのだから安全策をとったものと考えられる。
次に、瀬戸内海は古来、海賊が蔓延っていたことが知られている。
以下に、もう一度瀬戸内海の図を見てもらいたい。
本州側に諸島が連なっていることがわかる。
こうした特徴を生かして、この地では海賊がたくさんいたことが分かっている。
最も有名なのが村上水軍としても知られる海賊団である。
そうした海賊は瀬戸内海を通る交易船を狙っていたであろうから、もし松山が邪馬台国・女王国であれば、周防大島諸島や芸予諸島は海賊にとって格好の仕事場である。
倭人としては、急いで女王国に向かいたい使節団でもない限り、外国の要人を周防大島経由で案内しなかったのかもしれない。
愛媛県の由来である「エヒメ」は、卑弥呼が由来?
エヒメは女王国だった
愛媛県はかつて「伊予」と呼ばれていた。
この伊予国は、古事記と日本書紀における国生み神話において「愛比売(エヒメ)」という女神として象徴されている。
(なお、香川・讃岐国は飯依比古、徳島・阿波国は大宜都比売命、高知・土佐国は武依別)
この「エヒメ」という女神の名前は、「え=良い」「ひめ=高貴な女性(姫)」という意味ではないかとされている。
実際、古事記にはイザナギとイザナミの会話として、
「あなにやし、えをとこを(ああ、なんと良い男でしょう)」
「あなにやし、えをとめを(ああ、なんと良い乙女だろう)」
というものがあり、「え」というのは「良い」という意味がある。
これは関西弁の「えーもん(良い物)」という意味と一緒である。
わざわざ日本の歴史書に「エヒメ(良い姫)」という名前を伊予国に付したのは、何かしら伝説的なものを織り込んだのかもしれない。
その伝説とは、伊予・松山は「女性が治める国」であり、その女性とは「卑弥呼」や「台与」といった女王のことではないだろうか。
伊予国のイヨは、卑弥呼の跡を継いだ台与(イヨ)のこと?
さらに、卑弥呼の跡を継いだとされる「台与」は、その発音を「トヨ」ではなく「イヨ」であったとする説が濃厚である。
*台与(ウィキペディア)
邪馬台国・四国松山説でこの話が出てきたら、もう「台与 = 伊予」という流れを考えざるを得ない。
なお、「伊予」の語源は分かっていない。
いつの間にか、この地域を「イヨの国」と呼んでいたのである。
「伊予(イヨ)の国」というのは、「台与(イヨ)の国」と呼ばれていた頃の名残ではないだろうか。
それまで「卑弥呼の国」と呼ばれていたのが、次の世代には「台与の国」と呼ばれていたわけだ。
邪馬台国「やまたいこく(または、やまいこく)」という名称が後世に残っていない理由も、邪馬台国がこの瀬戸内海・西部地域を指す連合都市であり、便宜上の名称であったと考えれば辻褄が合う。
この地域を「邪馬台国」と呼んでいたのは為政者や外国人だけで、現地の人たちは松山を「ヒミコの国」「イヨの国」と呼んでいたのではないか。
九州は男神の島
一方、男神ばかりで構成されているのが九州である。
国生み神話において九州は、「筑紫島(つくしのしま)」として誕生し、四国と同様に、体は1つ、顔が4つの国である。
すなわち、
筑紫国(九州北部) = 白日別(しらひわけ)
豊国(九州東部) = 豊日別(とよひわけ)
肥国(九州西部 = 建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくじひねわけ)
熊曽国(九州南部) = 建日別(たけひわけ)
こうした設定は、魏志倭人伝における、
「倭国(西日本・九州地方)は、女王が治めるまで争っていた」という記述や、「まだ男が治めている邪馬台国より南方の国、狗奴国」を彷彿とさせる。
もしかすると、邪馬台国の時代に卑弥呼が治めていた地域は九州の筑紫国(九州北部)に相当する地域のことであり、豊国(九州東部)は投馬国、九州西部・南部は狗奴国だったのかもしれない。
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